SHAZNA
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SHAZNA
出身地
日本
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ロック

ポップ・ロック

ニュー・ウェイヴ

オルタナティヴ・ロック

活動期間1993年 - 2000年
2006年 - 2009年
2017年[1][2] -
レーベルDA-SE JEITO(1994年11月)
LACHESIS(1996年3月)
eyear(1996年8月)
スウィート・ハート レコーズ(1997年1月)
RCAアリオラジャパン1997年8月 - 1998年7月
東芝EMI1998年8月 - 2000年7月)
ロックチッパーレコード(2007年 - 2009年)
イノセント・レコード(2024年)
事務所DA-SE JEITO(1993年 - 1995年)
スウィートチャイルド(1996年 - 2000年)
オフィスタッチ(2001年 - 2006年)
スウィートチャイルド(2007年 - 2009年)
エースクルー・エンタテインメント(2017年 - 2023年)
参華三釼(さんかみつるぎ)(2024年 - 現在)
共同作業者そうる透ドラムス
公式サイトwww.shazna-30th.com

メンバー

IZAMボーカル

A・O・I(ギター

NIY(ベース


旧メンバー

KATSURA(ドラムス

Raychell(ボーカル)

夏芽(ドラムス)

Asuka(サックス

SHAZNA(シャズナ)は、日本ヴィジュアル系ロックバンド。ほぼ同時期にメジャーデビューをしていたMALICE MIZERFANATIC◇CRISISLa'cryma Christiと共に「ヴィジュアル系四天王」と称された[3]
概要
結成?インディーズ期バンドのロゴ

1993年結成。結成最初期のメンバーはIZAM、NIY、NIYの弟という編成だったが、結成から少し経った後にギターを担当していたNIYの弟が脱退。しばらくバンドにはギタリストが不在の状態で、メンバーの募集をしたところ、ほどなくしてPENICILLINのO-JIROの紹介によりA・O・Iが加入。さらにその後、ドラム担当として当時既に別のバンドを組んで活動していたKATSURA(後述)も加入し、4人編成でインディーズ・デビューを果たした。

ヴォーカルのIZAMが学生時代にカルチャー・クラブボーイ・ジョージから影響を受けた中性的なルックスと、1980年代のヒット・チャートを思わせる軽快な楽曲でインディーズながら爆発的な人気を博した。
一年計画と所属事務所

SHAZNAの音楽活動のため、メンバー全員が借金まで背負っていたが、メジャーデビューへの道筋は一向に見えていなかった。その閉塞した状況を打破するため、IZAMは「一年計画」を練り、メンバーに提示した。それは、向こう一年で最大限の努力をし、それが叶わなかったあかつきには、音楽活動を諦めて一般企業へと就職しようという趣旨のものであった。その結果、SHAZNAが方々に頭を下げて制作費400万円を必死にかき集め[4]、死力を尽くして完成させた作品が、インディーズ・ミニアルバム『Melty Case』である。のちにSHAZNAの代表曲となる「Melty Love」を収録した本作は、3,000枚を完売した[5]。しかし、『Melty Case』の売上(SHAZNAの取り分は450万円)のみならず、インディーズ・シングル『Dizziness』の売上(SHAZNAの取り分は180万円)も、初のインディーズ・ミニアルバム『Sophia』を発売したDA-SE JEITOのヤマダ・ユミによって原盤ごと持ち逃げされ、SHAZNAには一円も入金されなかった[6]

IZAMは、大久保のレコーディング・スタジオで偶然会ったヒップランドミュージックの関係者を、LUNA SEAの所属事務所であったスウィートチャイルドの関係者であると勘違いし、デモテープを渡した。後日IZAMが電話をかけると、ヒップランドミュージックはSHAZNAに興味を持ったと述べ、メンバー一人につき月給5万円での契約を提示した。数百万円もの借金の返済が待ち構えていたSHAZNAにとってその契約条件は極めて厳しいものであったが、この好機を逃せば後はないと考えたSHAZNAは、その条件を一旦は了承した。結果としてインディーズ・ミニアルバムの『Raspberry Time』がヒップランドミュージックよりバップの流通で発売され、音楽専門誌『Vicious』が宣伝に協力することとなった。また『Raspberry Time』を最後に、KATSURAがSHAZNAから脱退した。

同時期に、正真正銘スウィートチャイルドにて代表取締役を務めていた阪上(さかのうえ)正敏が、目黒鹿鳴館に掲示されていた『Melty Case』のポスターの鮮烈なヴィジュアルに目を見張った。阪上は目黒鹿鳴館の店長に話を聞き、そのバンドがSHAZNAであり、音楽専門誌『SHOXX』にも出稿していたとの情報を得た。阪上はSHOXXの編集長であった星子誠一に電話してIZAMのポケベル番号を聞き出し、SHAZNAのCDも聴いたうえで、彼らを呼び出した。その席上で、阪上はメンバー一人につき月給20万円での契約を提示し、数時間をかけてSHAZNAを口説き落とした。結果として、『Raspberry Time』は引き続きそのままヒップランドミュージックからレーベルとしてリリースしてもらうものの、SHAZNAの所属事務所はスウィートチャイルドになるということで話がまとまった。
SHAZNA現象に3億円

スウィートチャイルドは、SHAZNAのインディーズ・ミニアルバム『Promise Eve』を1997年1月に発売し、同年6月にはVHSビデオ『Lavender Color?シャズナノキモチ』を発売した。ビデオは、オリコンチャート第1位を獲得した。スウィートチャイルドはSHAZNAのメジャーデビューへ向けて着々と手はずを整えていったが、肝心のレコード会社にはどこからも興味を示してはもらえなかった。スウィートチャイルドは今ここで「SHAZNA現象」を作り出しておかなければヒットはおぼつかないとの経営判断から、LUNA SEAの売り上げを元手に、3億円もの広告出稿費を拠出した。あらゆる雑誌の表紙と裏表紙にIZAMの顔が掲載され、原宿は一面IZAMで埋め尽くされた。そこまでしてもなお、手を挙げるレコード会社は現れなかった。

そこで、それまでSHAZNAを応援してきたテレビ朝日の深夜音楽番組「Break Out」の制作会社であるテレビ朝日ミュージック音楽出版社として名乗り出た。テレビ朝日ミュージックはスウィートチャイルドとともに音楽著作権原盤権を半分ずつ持ち合い、当時は(メジャーレーベル基準では)シングルで300万円、アルバムともなれば1,000万円にも及んでいた原盤制作費の半額を出資するという大胆な決断を下した。これは、レコード会社にとっては巨額な原盤制作費を自ら負担する必要がなくなったということを意味した。その分、レコード会社は原盤印税を原盤権者に多く支払わなければならなくなってしまうが、万が一アーティストが売れなかったときの損失も少なくて済む。この構図にて、テレビ朝日ミュージックの営業努力により(アルバム一枚のワンショット契約ではあったが)BMG JAPANがSHAZNAのレコード会社となることが決まり、メジャーデビューへの道筋がようやく整った。
メジャーデビュー

1997年8月27日、新たにレコーディングした代表曲「Melty Love」を表題作としたCDシングル『Melty Love』でBMG JAPANからメジャーデビューを果たし、同曲は88万枚のヒットを記録した[5]。同年、一風堂の『すみれ September Love』をカバーし、こちらも65万枚を超えるヒットを記録した[7]。また、この年の日本有線大賞最優秀新人賞を受賞。1998年にリリースした1枚目のフルアルバム『GOLD SUN AND SILVER MOON』はミリオンセラーを記録し、日本ゴールドディスク大賞「ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。

「SHAZNA現象」とも呼ばれた空前絶後の人気を得た彼らに待ち受けていたのは、1日の睡眠時間が1時間から2時間しかないという常軌を逸した多忙なスケジュールであった[5][8]。特にIZAMはバンドの顔として尋常ではないほどの仕事量を必死にこなしていたが、それでも、所属事務所であるスウィートチャイルドから支給される月給は、メンバー一人につき手取り45万円程度でしかなかった[8]。月給に印税が上乗せされて支給されることもあったが、印税収入はCDの売上枚数に比例して生じるため、安定した収入源とはなりえなかった[8]。他方では、ロック・スターとしての自覚を持った生活を送るようにとスウィートチャイルドから指導されていたため、日常の被服費を始めとして、生活に必要な支出額が飛躍的に高まっていった[8]。加えて、他社のこととはいえ、鈴木亜美が所属事務所から月給300万円を支給されていたことを知ると、「バンドとはいえ、自分たちの給料はその異常な仕事量に比してあまりにも割に合わないのではないか」という実情も見えてきた[8]。また、各関係者の人数が増えていくにつれて、メンバー自身が自己の音楽活動を自律的に指揮することも難しくなっていった[5]

スウィートチャイルドはSHAZNAやIZAMに来た仕事を見境なく引き受けてゆき、一つひとつの仕事がSHAZNAのブランディングにどのような影響を及ぼしうるのかといった品質管理はおざなりにされた[9]。その結果、SHAZNAの人気は徐々に衰えていった[9]。SHAZNAとスウィートチャイルドとの関係は言うまでもなく、メンバー同士の関係性までもが狂い始めた[9]。その悪影響は、2000年の夏に開催を計画していた全国各地でのライブツアーを中止し、東京と大阪でのみの開催に留めるというというかたちで現れてしまった[9]。この危機的な状況に至って、スウィートチャイルドもただ手をこまねいていたわけではなかった。スウィートチャイルドは、日本テレビ放送網のテレビ番組「雷波少年」でSomething ELseが挑み成功した「三人で一部屋にこもり最後のシングルCDを制作し、それがオリコンチャート初登場20位以内に入らなければバンドを解散して、音楽業界以外の職種に転職する」という企画にSHAZNAも挑戦してみてはどうかと提案した[10]。当時は地上波テレビ番組の影響力が極めて大きかったこともあるが、日テレの力を借りるということは、何よりもそれまでにSHAZNAの音楽著作権の利用機会の開発に多大な貢献を果たしてきたテレビ朝日ミュージックとの関係を一方的に断ち、同社の競合である日本テレビ音楽と新たに取引を開始するという不義理を働くことをも意味していた。スウィートチャイルドとしては、SHAZNAの起死回生を懸けた窮余の一手でもあった[10]。しかし、その時点でSHAZNAのスウィートチャイルドに対する信頼関係はほころびかけており、SHAZNAはスウィートチャイルドの提案を前向きに受け入れることがどうしてもできなかった[10]。そして、テレビ番組の企画の一環とはいえ、「解散」の一言をスウィートチャイルド側から聞かされたことが、SHAZNA側にかすかに残っていたスウィートチャイルドに対する信頼の一切を喪失する嚆矢となり、所属事務所を移籍する話へと発展していった[10]
活動休止・再開

『Melty Love』によるメジャーデビューから3年後、2000年10月の東京と大阪でのライブを経て、11月のスウィートチャイルド主催イベントへの参加を最後にSHAZNAは活動休止を発表した。また、それまで所属していたスウィートチャイルドから離籍し、サポート・ドラマーを務めていたそうる透のつてを頼ってオフィスタッチへと移籍した[10]

活動休止後、IZAMはソロ・アーティストや俳優としても活動した。A・O・Iはギタリストとしてのセッション参加や「AOI UNPLUGGED」と題したヴォーカル&アコースティック・ギターでのライヴ活動と「監督:葵圭介」としての映画制作など幅広く活動した。NIYはバンド「FANBLE」のベーシストとして活動した。

なお、SHAZNA活動休止の原因については活動再開後のインタビューにて「バンドとしての活動に行き詰まっていた」とメンバー自身が当時を振り返って告白している。

活動を休止した翌年から、IZAMは他のメンバーに対し早々と活動の再開を持ちかけていたものの、その時点ではメンバー全員の意思が統一されていなかった[11]。しかしメンバーはお互いに定期的に接触を持ち、忘年会は毎年必ず開いていた。2005年の忘年会にてようやくメンバー全員の意思が一致、SHAZNAの今後の意思を尊重してくれるスタッフのみで活動を再開する運びとなった[11]

2006年6月、デビュー9年を期に6年ぶりの活動再開を発表し、IZAMは自身のトレードマークであった女装を「単に飽きてた」のと「髪を短くしていた」ことを理由に封印した[11]。9月の渋谷duo MUSIC EXCHANGEでの復活ライヴで活動を再開。11月にはIZAMとタレントの吉岡美穂の結婚が報道された。IZAMにとっては再婚となる。

2007年4月25日にニュー・シングル『心 c/w [1/2] , 神風』がネット限定発売。「神風」を除く2曲は、ダウンロード、着うたフルでも発売された。5月4日、5日、6日には、東京の目黒鹿鳴館で原点回帰をキーワードにした復帰シングル発売記念のライヴを行った。この3日間はそれぞれ「過去」・「現在」・「未来」と分けられ、一部楽曲を除き各日異なる曲構成となっていた。

2007年8月8日に10周年記念アルバム『10th Melty Life』をロックチッパーレコードより発売した。エンハンスト仕様で、「Melty Love」のラスト・インディーズ・ヴァージョンのPVが収録されている。8月19日には十周年記念公演「Summer Celebration☆10th Melty Life☆」を恵比寿LIQUIDROOMにて開催した。9月5日にはベスト盤『SINGLE BEST SHAZNA & IZAM』を発売した。

2007年11月24日には東京キネマ倶楽部にて「?年納め2007?A O I & NIY's Special Birthday Live?」を行い、IZAMは久しぶりに女装姿で登場し、ファンを沸かせた。

2008年2月、ギタリストA・O・Iが自身のブログにて、女優で作詞家の森本玲との結婚を報告した。
解散

2008年10月、『ホームレス中学生』に因んで題されたメンバーの合同著書、『ホームレスヴィジュアル系』を出版した。


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