空母ハンコック艦載のSB2C
(第85爆撃飛行隊
SB2C ヘルダイヴァー(Curtiss-Wright SB2C Helldiver )は、カーチス・ライト社が開発し、第二次世界大戦期後半にアメリカ海軍で運用された偵察爆撃機。
愛称の「ヘルダイヴァー(Helldiver)[1](同社が以前開発した急降下爆撃機の代名詞の三代目を称した[2])」は、英語圏におけるオビハシカイツブリ(Pied-billed grebe)の別名。
フェアチャイルド社製の機体はSBF、カナディアン・カー・アンド・ファウンドリー社製の機体はSBWとして採用された。陸軍向けにも製造され、A-25 シュライク(Curtiss-Wright A-25 Shrike、シュライクとはモズの意)として制式採用された。
開発試作型 XSB2C
ダグラス社が製造したSBDドーントレス偵察爆撃機の後継機として開発された。原型機の初飛行は1940年12月のことである。ドーントレスより速度や爆弾搭載量が強化され、機銃もSBDが搭載していた12.7mmより強力な20mm機銃が搭載された。SBDと異なり、爆弾は胴体下部の爆弾倉内に収納する。
開発においては要求性能的に大型化が避けられない機体を、航空母艦のエレベーターに収めるために無理やり機体後半部が切り詰められた設計とした。また、性能より生産性を重視した仕様の為、操縦性・離着艦性能などの安定性はあまり良くなく、トラブルの多い機体だった。このことから、当時の操縦士達からは型番をもじって「サノヴァビッチ・セカンドクラス(Son of a Bitch 2nd Class:二流のろくでなし)」と暗に呼ばれ、忌み嫌われていた。[3] 主に太平洋各地や日本本土への空襲で活躍した。特筆すべき運用実績としては坊の岬沖海戦での戦艦大和に対する急降下爆撃が挙げられる。 SB2C-1は不具合などから練習機として運用されたが、本格的に運用されたSB2C-1Cは1943年11月から実戦に投入された。1944年には新型のカーティス社製4翅プロペラを備えエンジンもR-2600-20へと換装されたSB2C-3が配備されはじめた。この型がマリアナ沖海戦や台湾、硫黄島、沖縄近海へと出撃し、戦艦武蔵や大和の撃沈に一役買った。 1942年から1943年には3色の青系迷彩[注釈 1]が施されたSB2Cが運用されていたが、空母での運用上翼が折り畳まれた状態で甲板に並ぶため、翼下面が上から見えることを想定して翼下面の外側に暗い上面側の迷彩がされていた。 F6F「ヘルキャット」とF4U/FG「コルセア」が爆弾を搭載し地上目標へ攻撃でき、敵の戦闘機に対して非常に強固な防御性能を持つことが運用によって証明されていたが、SB2Cはより正確に兵器を撃ち込むことができた。また、海軍の作戦で非常に重要な爆弾を搭載しながら、戦闘機よりも優れた航続性能を持っていた。 空対地ロケットの出現により、後継機であるBTDデストロイヤーやAMモーラー、ADスカイレイダーは急降下爆撃を行わなくなったため、SB2Cは最後に製造された急降下爆撃機となった。空対地ロケットは垂直に近い急降下による空気抵抗や、急降下爆撃機に求められるような厳しい性能要件が無くとも海上および陸上の標的に対する精密な攻撃を可能にしたことから急速に急降下爆撃機と変わって運用されはじめた。 SB2Cは、1947年まで現役米海軍中隊で運用されており、現役部隊を退役した後も1950年まで海軍予備飛行部隊で運用されていた。第二次世界大戦の終結や現役部隊からの退役に伴って発生した余剰航空機はフランス、イタリア、ギリシャ、ポルトガル、およびタイの海軍空軍に売却された。ギリシャに供与された機体はギリシャ内戦で運用され、翼に追加の機関銃を内蔵したポッドが取り付けられた。フランスに供与された機体は、1951年から1954年までの第1次インドシナ戦争において運用された。 カーティス・ライト社のセントルイス工場で製造された900機は陸軍航空軍 (USAAF)によってA-25Aシュライク攻撃機として注文された。最初に生産された10機には空母積載のための折りたたみ翼があったが、これ以降の機体では廃止された。他の多くの変更により、A-25Aは大きな主輪、空気圧式尾輪、円環型照準器、長い排気管、その他の陸軍指定の無線機器などがSB2Cより変更されていた。A-25Aが導入された1943年後半には、P-47サンダーボルトなどの戦闘機が戦術的航空支援任務を遂行する能力を持っていたため、急降下爆撃任務を行う本機は必要なくなっていた。このためUSAAFは410機のA-25Aを海兵隊へ移した。海兵隊ではSB2C-1として配備されたが、前線には輸送されず主に練習機として使用された。米陸軍で運用された残り490機のA-25Aも、練習や標的曳航といった支援任務に従事したのみで実戦には参加しなかった。 戦後、フランス海軍航空隊に供給された機体はインドシナ戦争に参加した。また、ギリシャ、タイ、イタリア等にも供与され、1950年代半ばまで運用された。 オーストラリア政府は、オーストラリア空軍(RAAF)の運用するヴェンジェンス急降下爆撃機を更新する目的で150機のシュライクを注文した。この代金は武器貸与法に基づく援助として米国政府から支払われた。最初に生産された10機は1943年11月にオーストラリアに届けられたが、RAAFは急降下爆撃を時代遅れと見なすようになり急降下爆撃機の注文は行わなくなったため、残りの140機の注文はキャンセルされた。
現場での評価とは裏腹に、急降下爆撃から雷撃までが可能な本機の多目的性は上層部から高く評価され、生産機数は実に7,000機以上にも及び、SBDに替わってアメリカ海軍の戦争後期の主力艦上爆撃機となっている。
運用