S100バス
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S-100バス
開発年1974年 (50年前) (1974)
開発者エド・ロバーツ
ビット幅8

S-100バス(S-100 bus)は、初期のコンピュータバスの規格である。1974年にAltair 8800のために設計された外部バス規格であり、Altairバスとも呼ばれる。

S-100バス上でプロセッサと周辺カードにより構成されるコンピュータを「S-100コンピュータ」といい、多くのメーカーによって製造された。S-100バスは、CP/MMP/M用のドライバを実装した自作コンピュータの基礎となった。S-100コンピュータは、ホビイストのための玩具から中小企業のワークステーションまで幅広く使用され、IBM PCの登場までの初期のホームコンピュータでは一般的だった(ただし、一部のS-100コンピュータはIBM PCを凌駕していた)。

1983年にIEEE-696として規格化された。これは、マイクロコンピュータ業界における外部バスの初の工業規格だった。
アーキテクチャクロメンコの創業者のハリー・ガーランド(左)とロジャー・メレン。ガーランドが持っているのがS-100バックプレーン。(1981年撮影)

S-100バスは、100ピンのプリント基板のエッジ・コネクタを並列に配線したパッシブ・バックプレーンである。CPUメモリ入出力インターフェイスの機能を提供する5×10インチの回路カードが、これらのコネクタに差し込まれる。S-100バスで最初に使われたマイクロプロセッサがIntel 8080であったため、バス信号の定義は8080の信号定義と密接に関連している。S-100バスの100本のラインは、(1)電源、(2)データ、(3)アドレス、(4)クロック・制御の4つのタイプに分類される[1]

バス上で供給される電力はバルクの無調整直流+8 Vと直流±16 Vであり、各カード上で、TTL IC用の+5 V、CPU IC用の-5 Vと+12 V、RS-232ラインドライバIC用の±12 V、ディスクドライブモーター用の+12 Vに調整(英語版)するように設計されている。カード上での電圧調整は、一般的に78xxシリーズなどの三端子レギュレータ(例えば、+5 Vを生成する7805)によって行われる。これらは一般的に、ヒートシンクに搭載されているリニアレギュレータだった。

Intel 8080の双方向8ビットデータバスは、2つの単方向8ビットデータバスに分割されている。プロセッサは、これらのうちの1つだけを一度に使用することができた。Sol-20は、単一の8ビットバスのみを持つバリエーションを使用し、使っていないピンを信号グランドとして使用してノイズを低減した。バスの方向(インかアウトか)は、使っていないDBINピンを使って信号化された。これはS-100の市場においても広く行われるようになり、2つ目のバスは不要となった。後に、この2つの8ビットバスを組み合わせて16ビットのデータ幅に対応するようになり、より高度なプロセッサでは、Solのシステムを使用して方向を信号化するようになった。

アドレスバスは初期実装では16ビット幅で、後に24ビット幅に拡張された。バス制御信号は、Direct Memory Access(DMA)を可能にするために、これらのラインを3ステートロジック(英語版)の状態にすることができる。例えば、Cromemco Dazzlerは、DMAを使用してメモリからデジタルイメージを取り出す初期のS-100カードである。

クロック・制御信号は、バス上のトラフィックを管理するために使用される。例えば、DO Disableラインは、DMA時にアドレスラインを3ステートロジックにする。当初のバス仕様の未割り当てラインは、後に、より高度なプロセッサに対応するために割り当てられた。例えば、ザイログZ80プロセッサには、Intel 8080プロセッサにはないマスク不可割り込み(英語版)ラインが割り当てられている。その後、S-100バスの未割り当てラインの1つが再割り当てされ、マスク不可割り込み要求に対応するようになった。
歴史1986年に発表されたクロメンコ社のXXUプロセッサボード。16.7MHzで動作する、S-100バス用に開発された中では史上最速のCPUである。68881コプロセッサを搭載したMotorola 68020プロセッサと16Kバイトの高速キャッシュメモリを使用している。このCPUは、アメリカ空軍に広く配備されているCromemco CS-250コンピュータに採用されている。

Altairの設計中、使用可能なマシンを作るために必要なハードウェアは、1975年1月の発売日に間に合わなかった。設計者のエド・ロバーツは、バックプレーンがあまりにも多くのスペースを占めるという問題も抱えていた。これらの問題を回避するために、既存の部品に加えて「スロット」をケースに入れ、不足している部品を後から差し込めるようにした。バックプレーンは4枚のカードに分割されており、CPUは5枚目のカードに搭載されている。そこで、安価なコネクタを探していたところ、軍用の余剰品である100ピンのエッジコネクタを見つけた。この100ピンバスは、無名の製図技師が部品カタログからコネクタを選び、コネクタのピンのグループに信号を任意に割り当てて作ったものである[2]

1975年のAltairの発売後、その互換機の産業が急成長した。これらの互換機の多くはAltairと同じバスレイアウトを採用しており、事実上の業界標準となった。互換機メーカーは、このシステムを「Altairバス」と呼ぶことを余儀なくされ、自社のシステムを説明する際に他社の製品の名称を出すのを避けるために、別の名前を求めていた。「S-100」という名称は、クロメンコの創業者であるハリー・ガーランドロジャー・メレンによって考案されたもので、「Standard 100」の略である[3][4]。1976年8月にニュージャージー州アトランティックシティで開催されたマイクロコンピュータの会合「PC '76」に出席するためのフライト中、彼らは機内でプロセッサ・テクノロジー社のボブ・マーシュ、リー・フェルゼンスタインと同室になった。メレンは彼らの所へ行き、同じ名前を採用するように説得した。メレンは手に缶ビールを持っていたが、飛行機が気流で揺れて、こぼれたビールがマーシュにかかってしまった。マーシュはこの名前を使うことに同意したが、これはマーシュがメレンに早く自分の側から離れてほしかったからだろうと、メレンは推測している[5]

「S-100バス」という言葉は、『バイト』1976年11月号のクロメンコの広告で初めて印刷物に載った[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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