S.O.B
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この項目では、デスメタルについて説明しています。映画については「S.O.B. (映画)」をご覧ください。

S.O.B
別名Sabotage Organized Barbarian
出身地 日本 大阪
ジャンルハードコア・パンク(初期)
スラッシュコア
デスメタル
エクスペリメンタル・ハードコア
活動期間1985年 -
レーベルSELFISH RECORDS
SOUNDS OF BURIAL RECORDS
NAC RECORDS
トイズファクトリー
東芝EMI

メンバーYASUE (ドラムス
TOSHIMI (ギター
KAWATAKA (ベース
ETSUSHI (ボーカル

旧メンバーTOTTSUAN (ボーカル)
TUNK (ベース)
KAS (ギター)
KINN (ドラムス)
NAOTO (ベース、ボーカル)
ITOH (キーボード
YASUDA (ギター)
KATSUMI (ギター)

S.O.B(エス・オー・ビー)は、日本のハードコア・パンクバンド。ナパーム・デス(NAPALM DEATH)、ブルータル・トゥルース(BRUTAL TRUTH)等のグラインドコアバンドに多大な影響を与えた。

S.O.BはSabotage Organized Barbarian(サボタージ・オーガナイズド・バーバリアン)の略称であるがこの呼び名で呼ばれることはほとんどない。バンド名をつけたのはTOTTSUANで、結成当時、略語のアルファベットを並べたバンド名で考えていて、元々SOBというスラングが意味するところのSon Of a BitchからとってS.O.Bと言うバンド名にした。ただそのままだと面白くないと言う理由で、「Sabotage Organized Barbarian」の略=S.O.Bとした。最初にリリースした1stDEMO TAPEのタイトルは「Sabotage Organized barbarian」である。後年のインタビューで「今年の海外での活動も考え、敢えて意味を変えた」とあるが、特段大きな理由は無かった。


なお SxOxB と表記することも多く、1993年(平成5年)以降はほぼこちらの表記となっている。
概要

バンドリーダーのTOTTSUANは、S.O.B結成以前はSKINHEADで、結成極初期はそれほどスピードも速くない、US-UK系のハードコアパンクに触発されたバンドであった。オムニバス「LAST PUNK OSAKA」の前のデモは、このオムニバスに収録されている曲と比べても、オーソドックスな、スピードもそれなりの構成だった。

オリジナルメンバーのTUNKが「OUTO(オウト)」に正式加入する事になってしまったため、TOTTSUANはメンバーを固定させ、サウンド面での進化を考えて、全パートを再選考する事にした。以前より目をつけていた、京都で少し前に解散していた「THE BONES(ザ・ボーンズ)」のTOSHIMI、同じく京都の「SELTIC FROST(セルティックフロスト)」をやっていたYASUE、スケートボードショップ「VIOLENT GRIND大阪店」でバイトしていて、「BRUTUS(ブルータス)」で活動していたNAOTOに声をかけ、新体制を確立。

このラインナップでの1st 7"EP「LEAVE ME ALONE」がS.O.Bを一躍有名にした。YASUEが当時掛け持ちしていたSELTIC FROSTはかなり早いドラムリズムであったため、サウンド全体の加速は著しかった。ギグでの実際の演奏も、初期ラインナップと比べ物にならない速さになった。YASUEはS.O.B加入後もメンバーを探して「SELTIC FROST(セルティックフロスト)」を継続させてはいたが、暫くしてS.O.Bに専念すべく、活動を停止させた。

スケートボードとの音楽的なマッチングもよく、大阪ハードコア代表としてOUTOと肩を並べる存在になって行った。

1987年(昭和62年)、「NAPALM DEATHナパーム・デス)」の1st LPのTHANXリストにS.O.Bの名前を見つけたTOTTSUANが、当時のボーカルであったLEE DORIAN(リー・ドリアン)と交流が始まり、日本・英国を含むヨーロッパツアーが実現。「EARACHE RECORDS(イアー・エイク・レコーズ)」所属のバンドとの接触も増えた。

同時期、NAOTOが「RISE FROM THE DEAD(ライズ・フロム・ザ・デッド)」結成のため脱退。「DANCE MACABRA(ダンス・マカブラ)」のKAWATAKAが加入。

当時のTOTTSUANとYASUEの方向性がデスメタルで合致しており、スピードよりもヘビーなサウンドへ変化。(WHAT'S THE TRUTH(2nd Album)からトイズファクトリー移籍後の2枚のアルバム)

しかし、バンドのリーダーであったTOTTSUANが、電車への飛び込み自殺により1995年(平成7年)死去。YASUEが後を引き継ぎリーダーとなり、初期のベース、当時(現在)RISE FROM THE DEADのNAOTOを再加入させて始動。

元OUTOのKATSUMIも迎えた「DUB GRIND」では、初期S.O.Bと後期RISE FROM THE DEADを足して2で割ったようなサウンドであり、初期のS.O.Bを知る者と後期デスメタル化したS.O.Bから知る者とでは評価が分かれた。短期間ではあるが一時期はシンセサイザーのメンバーも加入していた。

2000年(平成12年)、NAOTOがRISE FROM THE DEADに専念するため、再び脱退。

YASUEは新しいボーカルを各方面で探し、新体制で初期音源のセルフカバーを発表。

現在の活動はあまり活発ではないが、サウンドはVICIOUS WORLD発表時期のデスメタルに戻っている。
略歴

1985年(昭和60年) TOTTSUAN(ボーカル)、TUNK(ベース)(ex HALF YEARS、その後はOUTO、K.G.G.M)、KAS(ギター)(後にK.G.G.M)、KINN(ドラムス)の4人で大阪にて結成。

1985年(昭和60年) DEMOテープを作成(6曲。ラジカセでダビングし、手書きジャケットで、極少数制作)。

1986年(昭和61年) 大阪のBEGGARS CONNECTIONより、オムニバス『Last Punk Osaka』が発売され、A面のトップに4曲収録。SLAP IN THE FACE等、後のレコードで聴ける曲もあるが、スピードは極端に速くはない。ただこの頃から大阪では既に速いバンドとして認識されていた。

1986年(昭和61年) TOTTSUAN以外、メンバーチェンジ。京都のTHE BONESのTOSHIMI(ギター)、京都のSELTIC FROSTを掛け持ちしていたYASUE(ドラムス)、RAPES結成前のボーカルSHINTANIが中心にやっていたBRUTUSからNAOTO(ベース)の3人が加入しメンバーが固まる。Selfish Recordsから7"EP『Leave Me Alone』を発表。

1987年(昭和62年) 1stアルバム『Don't Be Swindle』をSelfish Recordsより発表。TOTTSUANが当時ナパーム・デスのボーカルだったリー・ドリアンと文通を始める。

1988年(昭和63年) 非常階段と共にSOB階段を組み、SOB階段『Noise Violence and Destroy』をAlchemy Recordsより発表。


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