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「S-55」はこの項目へ転送されています。ロシアのスホーイ製試作軽戦闘機については「S-54 (航空機)#派生型」をご覧ください。
朝鮮戦争におけるH-19(1953年)
シコルスキー S-55(Sikorsky S-55)は、アメリカ合衆国の航空機メーカー、シコルスキー・エアクラフト社が製造した実用貨物ヘリコプター。同社のS-51から発展させたもので、ふくらんだ機首先端に空冷星型レシプロエンジンを斜めに格納し、乗組員や貨物のための後部機内スペースを広く確保しているのが特徴である。
輸送ヘリコプターとして軍民共に世界各国で採用され、ヘリコプターの有用性を実証する先駆者的な業績を残した。全世界で1,828機が製造されたベストセラー機種である。 アメリカ陸軍は第二次世界大戦中から、乗員を輸送するための手段としてヘリコプターに注目して研究を行っていたが、シコルスキー社に対して乗員2名・兵員10名あるいは担架8台を搭載して、340 kmの航続距離を持つ機体「H-19」の開発を命じた。 試作機YH-19は1949年に初飛行した。初期のヘリコプターは操縦が非常に難しく、操縦士には熟練が必要とされたが、YH-19の実用試験機は当時勃発していた朝鮮戦争に派遣されて、その機内容積の大きさ、場所を選ばない離着陸など有用性を示し、アメリカ空軍は1951年にH-19Aとして制式採用し、50機発注した。その後も陸軍がH-19をチカソー(Chickasaw 英語版 YH-19にはシコルスキー社のグローフ技師によって斬新な設計がされていた。600馬力のプラット・アンド・ホイットニー製のワスプR-1340 レシプロエンジンを機首に35度斜めに搭載し、機内を斜めに貫く駆動軸でロータを回転させていた。これは当時大型だったエンジンを胴体上部に配置すると、重心位置が高くなり地上で転倒したり、整備性が悪くなるためでもあった。また、駆動軸を斜めに配置してあることで、重心部に9.6m3の機内容積が確保され、小柄な見た目に関わらず、かなりの人員・貨物の積載が可能となった。 胴体はアルミニウム合金とマグネシウム合金によるセミモノコック構造で、キャビン後部に電気室があり、無線機やヒーターを装備できた。機内は内張りされており、軍事型は10人分の座席または6人分の担架、民間型は7人分の座席を装備した。このほか、量産機には尾部に逆V字型の「ひれ」が追加装備された。テールブームは当初水平に伸びていたが、飛行中にメインローターブレードがたわんで接触する恐れがあったため、後にテールブームを5度斜め下に曲げ、安定翼を水平型から逆V型にする改良が施された。 シコルスキーは社内名称だったS-55を正式名として販売し、1950年代後半には西側諸国を中心に世界各国の軍や民間航空会社でも使用された。後に新機種S-58が発表されると、改良型であることからS-55を購入した各国が採用し、これも大ヒットとなり、以後シコルスキーはヘリコプターの代名詞となった。
開発経緯
構造
世界展開
イギリス詳細は「en:Westland Whirlwind (helicopter)」を参照
日本.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}所沢航空発祥記念館に屋内展示されている陸上自衛隊H-19海上自衛隊で救難機として使用されたS-55A浜松広報館に屋内展示されている航空自衛隊H-19C
日本でも、1952年(昭和27年)に航空飛行禁止措置が解かれたのを機に、海上保安庁が2機を導入して函館と館山に配備したほか、三菱重工業(当時は新三菱)が1952年からノックダウン生産を始め、28機を組み立てた。その後、1954年(昭和29年)に発足した航空自衛隊で、S-55(H-19)を救難機に、各自衛隊で多用途機として採用したため、1962年(昭和37年)まで合計72機をライセンス生産し、68機を各自衛隊に納入、4機を全日空など民間に販売した。空自では「はつかり」の愛称が与えられた。
当初はシコルスキー社と同様のH-19Aをライセンス生産していたが、陸上自衛隊にて飛行中にメインローターブレードでテールブームを切断し墜落する事があったため、テールブームを5度斜め下に曲げ、安定翼を逆V型から水平にしたH-19Cに更新され、生産もこちらに移行した。
航空自衛隊の救難部隊と共に、陸上自衛隊のS-55は1959年(昭和34年)の伊勢湾台風の際には救難作業(災害派遣)に従事し、取り残された多くの人命を救うことで、災害時のヘリの有用性を世界に示した。空自の救難機H-19は1957年(昭和32年)-1973年(昭和48年)1月まで使用された。退役後、埼玉県所沢航空発祥記念館に陸上自衛隊のH-19が1機、静岡県の浜松広報館(エアパーク)に航空自衛隊のH-19Cが1機、それぞれ屋内展示されている。
海上自衛隊では警備隊時代の1954年(昭和29年)にS-55を2機を購入し、合計3機を就役させが、1965年(昭和40年)までに全機事故で喪失。