Sボート
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試作艇は、1941年にユーゴスラビア海軍から鹵獲した6隻のドイツ製Sボートの様式を基に設計された。MSのうちの2隻は、イギリス軍巡洋艦「マンチェスター」を撃沈した[7]。これは、この種の艦艇による第二次大戦中の撃沈戦果のうち、軍艦に対するものとしては最大級のものである。1942年9月3日、エジプトに進出した連合国軍の前線後方に、14人からなるイタリア海兵隊員の一団を潜入させるため、2隻のMSボートが使用された。捕えられるまでに海兵隊員は鉄道と水道を爆破した[8]。1943年までにこれらの艇は36隻が完成した[9]

イタリア海軍では、MSを基本に速力を20ノット程度に抑えて航続距離を延伸し、装備を変更した派生型として、駆潜艇VAS(イタリア語版)(Vedette Anti Sommergibiliの略。魚雷兵装を45cm魚雷落射機2基に変更し、対潜爆雷を搭載)や機動掃海艇RDV(魚雷兵装を廃し、掃海具を搭載)が建造・配備されている[10]
スペイン海軍での運用

スペイン内戦中、ドイツ海軍はスペイン海軍に6隻のSボートを供給しており、第二次世界大戦中には更に6隻を供給した。さらにリュールセン社のいくばくかの補助によってもう6隻がスペインで建造された。これらのうち「Falange」もしくは「Requete」は機雷2個を敷設したが、これは1937年5月13日にアルメリア沖でイギリス軍の駆逐艦「HMSハンター」を無力化した。ドイツで建造されたボートは1960年代に廃棄され、少数のスペイン製魚雷艇のうち1隻が1970年代初期まで就役していた[11]
中国大陸のSボート

中国国民党海軍は日中戦争中に3隻のS-7 Sボートを保有した。1隻は日本軍の航空機に破壊され、1隻は喪失、最後の1隻は国共内戦中に中国人民解放軍に捕獲された。中国人民解放軍海軍はこの艇を警備艇として1963年まで使用した。中国国民党政府はまた、8隻のS-30 Sボートと魚雷艇輸送船を発注していたものの、1939年に、これらの船はドイツ海軍に編入された。
第二次世界大戦後の運用
イギリス海軍

戦争終結時、34隻ほどのSボートがイギリスに投降した。「S-130」「S-208」「S-212」の3隻が試験のために残され、それぞれ「P5230」「P5208」「P5212」と改名された。1949年から1956年にかけてジャングル作戦が行われた。これはMI6CIAおよびゲーレン機関が計画した連合作戦であり、海路によってソビエト連邦支配下のバルト三国およびポーランドへと工作員を潜入させるものだった。イギリス海軍の司令官アンソニー・コートニーは旧ドイツ海軍Sボートの船体が持つ潜在的な能力に感銘を受けており、また海軍情報部(NID)のジョン・ハーベイ=ジョーンズは計画担当に任命されていた。彼は「P5230」と「P5208」の2隻のSボートが未だにイギリス海軍に保管されていることを探り出し、これらの艇をポーツマスに回航した。そこで2隻の内の1隻である「P5230」(S-130艇)は重量軽減の改修が行われ、さらに出力3,000馬力のネイピア デルティックエンジンが2基据え付けられて出力が増強された。

法的否認権の問題から、以前Sボートの艇長を務めていたハンス=ヘルムート・クローゼ(ドイツ語版)およびドイツ人搭乗員がSボートの乗員として採用された。彼らは英国管理委員会が設けた、水産業保護サービスの一環を偽装して活動した。これはソ連海軍の艦艇がドイツの漁船に干渉するのを防ぐ役割を果たし、また漂流した機雷を処理する役目を負っていた[12]。彼らは母港キールホワイト・エンサイン(イギリス軍艦旗)を掲げて出港し、途中で旗をスウェーデンの国旗に交換し、その後具体的な指示を受けることになっていた。作戦は1949年5月から1955年4月まで実施され、最後の2年間には西ドイツで新造された高速艇が用いられた。
デンマーク王立海軍

1947年、デンマーク海軍は以前ドイツ海軍に在籍していた魚雷艇を12隻購入した。1951年、ノルウェー海軍から6隻を購入したことで、これらの艇はさらに増強された。最後のP568 Viben艇は1965年に退役した[13]
ノルウェー王立海軍

第二次世界大戦後、ノルウェー海軍はドイツ海軍の魚雷艇を数隻受領した。1951年、6隻の魚雷艇がデンマークに売却された。
運用国

 
ナチス・ドイツ

 西ドイツ

 イタリア

 ブルガリア

 スペイン

中華民国

イギリス

 デンマーク

 ノルウェー

中華人民共和国

残存艇

唯一残存したSボートは「S-130」であることが確認されている。2003年1月、ブリティッシュ・ミリタリー・パワーボート・トラストの後援の下で「S-130」艇は購入され、ドイツのヴィルヘルムスハーフェンからイングランドのサウサンプトンにあるマーチウッドの港へ曳航された。2004年、S-130はハイズの造船台に据えられ、ここでBMPTの管理により艇の準備が整えられた。それからこの艇はイングランドのプリマスにあるマッシュフォードの作業場まで牽引され、レストア資金を待ち受けることとなった。2008年、ケビン・フィートクロフトに購入された「S-130」艇はタマル川を越えて運ばれ、コーンウォールにあるサウスダウンの陸上に据えられた。これはロービング・コミッションズ社が関係するレストア作業を受けるためだった。2012年6月の段階でもこの作業は続けられており、関係者にはS130メンバーズクラブが参加している[14]

船体No.1030の「S-130」は、トラフェミュンデのシュリヒティング造艇場で建造されたもので、1943年8月21日に命令を受け、実戦投入された。参加作戦は前述の連合国軍のタイガー演習への攻撃、およびノルマンディー上陸作戦時の侵攻艦隊に対する攻撃である。

オランダの軍事史家であるモーリス・ラールマンによれば、

In 1945, S-130 was taken as a British war prize ( FPB 5030) and put to use in covert operations. Under the guise of the "British Baltic Fishery Protection Service", the British Secret Intelligence Service MI 6 ferried spies and agents into Eastern Europe. Beginning in May 1949, MI 6 used S-208, (Kommandant Hans-Helmut Klose) to insert agents into Lithuania, Latvia, Estonia, and Poland. The operations were very successful and continued under a more permanent organisation based in Hamburg. In 1952, S-130 joined the operation and the mission was enlarged to include signal intelligence (SIGINT) equipment. In 1954/55, S-130 and S-208 were replaced by a new generation of German S-boote.

「1945年、S-130は英国の戦利品となり(FPB 5030)、秘密作戦の任務に転用された。「英国バルト海水産業保護サービス」の外見の下で、英国の秘密情報機関であるMI6は諜報員や工作員を東欧へ輸送した。1949年5月初め、MI6はS-208艇を使用し(司令官ハンス・ヘルムート・クローゼ)、工作員をリトアニアラトビアエストニア、そしてポーランドへ潜入させた。この作戦は非常な成功を収め、またハンブルクに拠点を置く、もっと常設的な機関の下で繰り返された。1952年、S-130艇は作戦に参加した。この任務はシグナル・インテリジェンス(SIGINT)の装備を含んで規模が拡大されていた。1954/1955年、S-130艇およびS-208艇は新しい世代のドイツ高速艇に代替された。」

1957年3月、S-130艇は新しく創設されたドイツ連邦海軍に復帰し、ナンバーUW10として運用された。当初は「ウンターヴァッサーヴァッフェンシューレ」(水中兵器学校)の軍務に従事し、機雷や魚雷など、水中兵器を水兵に教育する機材として用いられた。この艇は後に、呼称EF3として試験艇に転用された[15]

S-130艇はドイツのヴィルヘルムスハーフェンに展示されており、以前はハウスボートとして用いられていた。今日「S-130」はイングランドのフィートクロフト・コレクションによって購入され、コーンウォールのサウスダウンにてレストア作業を受けている[16]
各型

「シュネルボート」の時系列に沿った設計の進化。最初の艇は前甲板に魚雷発射管2基を備えた。1930年代のSボート魚雷搭載作業中のS-38艇。Sボートの前面。凌波性から前甲板が一段高められ、魚雷発射管が被覆された艇首の武装。2cm Flak C/30または2cm Flak C38を装備。


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