Sボート
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この項目では、ドイツの魚雷艇について説明しています。アメリカ合衆国の潜水艦については「S級潜水艦 (アメリカ海軍)」をご覧ください。

Sボート (シュネルボート)
Sボート S-204(1945年)
基本情報
種別高速戦闘艇
建造所リュールセン社
運用者スペイン内戦:
 スペイン海軍
第二次世界大戦:
 ナチス・ドイツ海軍
 ユーゴスラビア海軍
 イタリア王立海軍
 中華民国海軍
戦後
 デンマーク海軍
 ノルウェー海軍
 中国人民解放軍海軍
 イギリス海軍
 西ドイツ海軍
 スペイン海軍
建造数(保存1隻)
要目
排水量100 t (最大)
78.9 t (標準)
長さ32.76 m
幅5.06 m
吃水1.47 m
推進器ダイムラーベンツ20気筒ディーゼルエンジンMB 501、3基。3,960 hp
速力43.8ノット
航続距離30ノット時に800海里
乗員24?30名
兵装53.3cm魚雷発射管2基(予備魚雷2本)
連装2cm Flak C/30、1基、単装2cm Flak、1基
3.7cm Flak 42、1基
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Sボート、ドイツ語では「Schnellboot(シュネルボート)」と呼ばれるこの高速艇は、第二次世界大戦中にドイツ海軍が使用した高速戦闘艇である。イギリスではこの艇を指してEボートと呼称したが、これは「Enemy」にちなんだものである[1][2]が、"Eilboot"(アイルボート、急速艇を意味するドイツ語)の可能性もあるとされる。

Sボートは極めて高速の艦艇であり、40ノット以上で巡航でき、またその船体は磁気機雷原を無傷で横断可能であることを意味した。この艇は外洋によく適合し、また約700海里と、アメリカ海軍PTボート(Patrol Torpedo boat)やイギリス海軍高速魚雷艇(Motor Torpedo Boat)よりも相当に長距離の航続能力を備えていた。その結果、イギリス海軍もフェアマイルDの船体設計を用いてEボートに近い性能の高速魚雷艇を開発のうえ対抗した。シュネルボートは通商破壊などを行っており、Uボートに次ぐ戦果を挙げたと言われている。

現代のドイツにおいては、魚雷艇ミサイル艇を含めた高速戦闘艇全体をSchnellbootと呼ぶ。魚雷艇とミサイル艇を区別する必要がある場合は、前者をTorpedoschnellboot(魚雷高速艇)、後者をFlugkorperschnellboot(ミサイル高速艇)と表記する。
また、建造当初のアルバトロス級ミサイル艇のように艦対艦ミサイル発射機と対艦攻撃用の533 mm魚雷発射管を混載する高速戦闘艇についてはTorpedo-Flugkorperschnellboot(魚雷-ミサイル高速艇)と表記されることがある。
歴史
開発

ヴェルサイユ条約の結果、ドイツの軍備計画は非常に制限された。しかしながら、小型の警備艇はどのような拘束の対象にもされていなかった。Sボートの出自を辿れば私的なモーターヨットに行き着く。排水量22 t、速力34ノット、艇の名称は「オヘカ II」(英語版)であり、これは1927年裕福投資家芸術家パトロンでもあるオットー・カーン(ドイツ語版、英語版)のためにドイツの造船会社リュールセン(ドイツ語版、英語版)社が建造したものだった。

この設計が選択された理由は、こうしたボートが北海英仏海峡ウェスタンアプローチ作戦海域にすることが予期されたことによる。時化の海でも良好な性能が要望されることから、小型の高速艇で通常用いられる平底船底を用いた船体の代わりに、丸底船底の船体を用いることが指示された。リュールセン社はこうした船体の不利の多くを克服し、オヘカ IIを高速かつ強靱で航洋性のある艇として生産した。これはドイツ海軍の関心を惹き、1929年には2本の魚雷発射管を装備した類似の艇が発注された。この艇はS-1型となり、以後の全てのSボートの基礎となった。

S-1艇の試験後、ドイツ軍は設計上のいくつかの改善を行った。主舵の両側に追加された小さな舵は30度まで艇の外部方向へ角度を取ることができ、高速時にリュールセン効果として知られる状態を作り出した[3]。これは3軸のプロペラのわずかな後方にエアーポケットを引き込み、これら推進器の効率を増強し、艦尾波を減少させ、また艇を水平に近い体勢に維持し続けることができた[4]。艦尾の水平姿勢が幾分浮きがちになったため、これは重要な技術革新だった。より高速を出すことが容認され、また艦尾波の減少はSボートの視認を困難とした。特に夜間には難しいものとなった。
ドイツ海軍での運用30ノットで航走するSボート。イギリス軍に投降した艇の画像

Sボートはしばしばバルト海の哨戒や、イギリスの南部と東部の港湾への海上輸送路を攻撃する命令により、英仏海峡の哨戒に用いられた。そうした経緯からSボート部隊は、イギリス海軍やイギリス連邦(特にノルマンディー上陸作戦に備えた王立カナダ海軍の兵力)のモーターガンボート、高速魚雷艇、モーターランチ、キャプテン級フリゲートや駆逐艦と対峙した。ノルマンディー上陸作戦の直前には、それに備えてイギリス南部で行われたタイガー演習 (1944年)を襲撃し、アメリカ海軍戦車揚陸艦の撃破にも成功している(「タイガー演習 (1944年)#Sボートの来襲―ライム湾の海戦」参照)。

またSボートは少数が地中海へ移送された。独ソ戦の戦場となった黒海にも陸路と河川を用いて運ばれた。いくつかの小型のSボートが補助巡洋艦の艦載艇として建造された。

Sボートの勤務員は勤務によって高速魚雷艇戦闘章を得ることができた。勤務内容を示すこの記章には、Sボートが柏葉環を通過する様子が描かれていた。評価基準は善行、作戦行動中の功績、そして少なくとも12回の敵との戦闘に参加することだった。この記章はまた、成功した作戦への参加、リーダーシップの発露、作戦行動中の戦死にも授与された。また別の勲章が不適当であるとされるような特別な状況下にも、この記章の授与が可能だった。

Sボート第9戦隊は、オーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)の侵攻艦隊に対抗した最初の海軍部隊だった[5]。この部隊は1944年6月6日の午前5時にシェルブール港を離れた[5]。自身が侵攻艦隊の全兵力と直面していることを察知し、彼らは最大射程で魚雷を発射し、シェルブールに帰投した[5]

第二次世界大戦中、Sボートは101隻の商船を撃沈し、その総計は214,728トンに達する[6]。加えて、これらの艇は12隻の駆逐艦、11隻の機雷掃海艇、8隻の揚陸艦、6隻のMTB、魚雷艇1隻、機雷敷設艦1隻、潜水艦1隻、数隻の商業用舟艇を撃沈した。Sボートはまた、2隻の巡洋艦、5隻の駆逐艦、3隻の揚陸艦、1隻の工作艦、1隻の海軍タグボート、そして非常に多数の商船を損傷させた。Sボートによる機雷敷設は37隻の商船の喪失をもたらし、総計は148,535トンに達する。また駆逐艦1隻、機雷掃海艦2隻、4隻の揚陸艦が沈没した[6]

彼らの任務を表彰し、Sボートの勤務員のうち23名が騎士鉄十字章を、112名がドイツ十字章金章を授与されている[6]
イタリア海軍のMSボートイタリア海軍のMSボート MS25他

MASボートの航洋性の不足から、イタリア海軍はSボートの自軍バージョンを建造した。これは単にMS(Motoscafo Silurante)と呼ばれた。試作艇は、1941年にユーゴスラビア海軍から鹵獲した6隻のドイツ製Sボートの様式を基に設計された。


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