ROXY_MUSIC
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フェリーはアントニー・プライス[24](ファッション・デザイナー)、ニコラス・デ・ヴィル[25][26][注釈 6]視覚芸術家)、エリック・ボーマン[27](写真家)、サイモン・パックスレイ[28](広報)など、将来長きに渡って共に活動していくことになる面々と接触して、デビューに備えていた[29]

1971年12月、フェリー(ヴォーカル、キーボード)、マッケイ(オーボエ、サクソフォーン)、オリスト(ギター)、イーノ(テープ、シンセサイザー)、シンプソン(ベース)、トンプソン(ドラムス)からなるロキシー・ミュージックは幾つかのライブ活動を行ない[30]、E.G.マネージメントのオーディションを受けて[31]関係者を納得させ、契約成立に向けて大きく前進した。
1972年 - 1976年
1972年 - 1973年

1972年1月4日、BBCのスタジオでBBC Radio 1の音楽番組『ピール・セッションズ』の録音を行なった[21][32][注釈 7]。その直後にオリストが脱退した[33][注釈 8]ので、彼等は元クワイエット・サンのギタリストで数か月前からサウンド・ミキサーの肩書きで帯同していたフィル・マンザネラ[注釈 9]を急遽正式メンバーに昇格させた。数週間後の2月14日、E.G.マネージメントとの正式な契約が成立した。

彼等は元キング・クリムゾンのピート・シンフィールドをプロデュ―サーに迎えて[34]、3月14日から29日まで[35]アルバムを制作。完成直後にシンプソンが脱退[36][注釈 10]したので、シンフィールドの推薦を受けたリック・ケントン[注釈 11][37]を準メンバーに迎えて[注釈 12]、5月末から国内ツアーを始めた[38]。6月16日にアイランド・レコードから1stアルバム『ロキシー・ミュージック』を発表。ジャケットにはモデル兼女優のカリー・アン[注釈 13]を起用。当時のロンドンはデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』が発売された直後のグラム・ロック・シーン全盛期で、アントニー・プライスがデザインした奇抜な衣装をまとって特異なスタイルの音楽を披露する彼等のデビューはグラム・ロック一派[注釈 14]の新星誕生として大きな話題を集め、アルバムは全英チャートで最高10位を記録。7月に1stシングルとして発表されたアルバム未収録の新曲「ヴァージニア・プレイン」[注釈 15]も、8月に全英チャートで最高4位のヒット曲になった[39]。国内ツアーではボウイの『ジギー・スターダスト』ツアーのサポート・アクトも務めて[40]さらに人気と注目を集め、彼等は翌1973年のNMEニュー・ミュージカル・エクスプレスのMost Promising New British Name部門で1位に輝いた[注釈 16]

1973年2月、クリス・トーマスとジョン・アンソニーをプロデュ―サーに迎えた2作目のシングル『パジャマラマ』を発表。フェリーと同じく元ザ・ガス・ボードのジョン・ポーター(英語版)[注釈 17][41]がベースを担当[42]。3月、同じ顔ぶれで制作した2ndアルバム『フォー・ユア・プレジャー』を発表[注釈 18]。「男装の麗人」アマンダ・レアが登場したジャケットが話題となるとともに、「ドゥ・ザ・ストランド」「エディションズ・オブ・ユー」「イン・エヴリ・ドリーム・ホーム・ア・ハートエイク」などに象徴されるグラム・ノワール(Gram noir)と形容されたサウンドが注目を集め、全英でデビュー・アルバムを上回る最高4位を記録してチャートに計27週間留まった[44]。同アルバムには収録されなかった「パジャマラマ」のシングルも全英で最高10位を記録した[45]

彼等は大きな成功を収めた一方で、内部に軋轢を抱えていた[46]。主導権を握っていたメンバーは殆ど全ての楽曲を一人で書いた[注釈 19]フェリーだったが、最も人気と注目を集めたのはイーノ[注釈 20]だった。女装さながらのきらびやかな衣装をまとってテープとシンセサイザーを操作するイーノの存在感は、キーボードを弾きながら歌うフェリーのそれを上回った[47]。その結果、両者の間に緊張関係が生まれ、成功を重ねるにつれて、その度合いは増えていった[48]

『フォー・ユア・プレジャー』発表後、彼等はベースにサル・メイダ[49]を起用して1973年3月半ばから5月末までイギリスとヨーロッパをツアーした[注釈 21][注釈 22]。コンサートはいずれも盛況だったが、スターはイーノであることはもはや誰の目にも明らかだった。彼は前年にフリップとのレコーディングなどの課外活動を幾つか開始していたので[注釈 23]、コンサートの取材に来た報道陣に囲まれる機会もそれだけ多かった。

同年7月8日、彼等はヨーク・ミュージアム・ガーデンズで開催されたミュージック・フェスティバルに出演した。イーノ目当てで来ていた一部の聴衆が彼の名を連呼し続け、あまりの喧騒に進行に支障が生じて、彼は聴衆を鎮める為に一旦ステージから退かざるをえなくなった[50]。フェリーはコンサートが終わった後、もうイーノとは仕事しないとマネージメントに宣言。数日後、イーノはマネージメントに呼び出され、自分はもはやロキシー・ミュージックのメンバーではないことを通告された[50][注釈 24]
1973年 - 1976年

彼等は喧騒にあふれた未来派的なサウンドのグラム・ロックを離れて「ヨーロッパ浪漫主義的方向」を追求し始め、イーノの後任にカーヴド・エアエディ・ジョブソン(キーボード、ヴァイオリン)を選んだ。彼等はそれまで多少なりとも「ノン・プレイヤーの集まり」という印象を持たれていた[注釈 25][51]が、確かな演奏技術を持つジョブソンを迎えて、さらに多くのファンの根強い支持を得た。1973年11月に3rdアルバム『ストランデッド』を発表。プロデュ―サーにトーマス、エンジニアにジョン・パンター、ベースにはジョン・ガスタフソン、ジャケットにはイギリス人で初めてプレイボーイ誌の『プレイメイト・オブ・ザ・イヤー』に選ばれたマリリン・コールが起用された。マンザネラとマッケイがフェリーの共作者として夫々1曲づつ曲作りに参加した同アルバムは、全英チャートで遂に1位を獲得した[52]。ツアーには再びメイダが起用された[53]

1974年11月、4thアルバム『カントリー・ライフ』発表。プロデュ―サーにはトーマスに代わってパンター、ベースにはガスタフソンを起用。マンザネラとマッケイのフェリーとの共作曲が夫々2曲に増えた。全英チャートで3位[54]。更に耽美・叙情性を増した音楽性もさることながら、シースルーの下着だけの女性2人[注釈 26][55][56]というジャケットが物議を醸し、アメリカでは袋入りで販売、スペインでは胸部から下を削除[57][注釈 27]、カナダでは彼女達を削除して背景だけを残す[58]、といった具合に様々な措置が取られた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}右側の黒い下着の女性は、もとは男性である[信頼性要検証][59]


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