ROXY_MUSIC
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イーノ目当てで来ていた一部の聴衆が彼の名を連呼し続け、あまりの喧騒に進行に支障が生じて、彼は聴衆を鎮める為に一旦ステージから退かざるをえなくなった[50]。フェリーはコンサートが終わった後、もうイーノとは仕事しないとマネージメントに宣言。数日後、イーノはマネージメントに呼び出され、自分はもはやロキシー・ミュージックのメンバーではないことを通告された[50][注釈 24]
1973年 - 1976年

彼等は喧騒にあふれた未来派的なサウンドのグラム・ロックを離れて「ヨーロッパ浪漫主義的方向」を追求し始め、イーノの後任にカーヴド・エアエディ・ジョブソン(キーボード、ヴァイオリン)を選んだ。彼等はそれまで多少なりとも「ノン・プレイヤーの集まり」という印象を持たれていた[注釈 25][51]が、確かな演奏技術を持つジョブソンを迎えて、さらに多くのファンの根強い支持を得た。1973年11月に3rdアルバム『ストランデッド』を発表。プロデュ―サーにトーマス、エンジニアにジョン・パンター、ベースにはジョン・ガスタフソン、ジャケットにはイギリス人で初めてプレイボーイ誌の『プレイメイト・オブ・ザ・イヤー』に選ばれたマリリン・コールが起用された。マンザネラとマッケイがフェリーの共作者として夫々1曲づつ曲作りに参加した同アルバムは、全英チャートで遂に1位を獲得した[52]。ツアーには再びメイダが起用された[53]

1974年11月、4thアルバム『カントリー・ライフ』発表。プロデュ―サーにはトーマスに代わってパンター、ベースにはガスタフソンを起用。マンザネラとマッケイのフェリーとの共作曲が夫々2曲に増えた。全英チャートで3位[54]。更に耽美・叙情性を増した音楽性もさることながら、シースルーの下着だけの女性2人[注釈 26][55][56]というジャケットが物議を醸し、アメリカでは袋入りで販売、スペインでは胸部から下を削除[57][注釈 27]、カナダでは彼女達を削除して背景だけを残す[58]、といった具合に様々な措置が取られた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}右側の黒い下着の女性は、もとは男性である[信頼性要検証][59]。ツアーには彼等と同じくE.G.マネージメントと契約を結んでいたジョン・ウェットンが起用された[60]

1975年10月、5thアルバム『サイレン』発表。プロデュ―サーにはトーマスが復帰し、ベースはガスタフソンがみたび担当。マンザネラとマッケイが2曲ずつ、ジョブソンが1曲、フェリーの共作者として記載された。ジャケットに起用されたモデルのジェリー・ホール[注釈 28]は、当時フェリーの恋人だった。全英チャートで4位[61]。本作からの先行シングル「恋はドラッグ(Love Is the Drug)」は、全英2位・全米30位のヒットを記録し、アメリカでロキシー・ミュージックの名を広めた。同年10月、ガスタフソンを起用してイギリス・ツアー[注釈 29]、11月から翌1976年3月までリック・ウィルスを起用して北米とスカンジナビアでツアーが行なわれ、新旧の楽曲に加えてフェリー[注釈 30]、マンザネラ[注釈 31]、マッケイ[注釈 32]のソロ・アルバムの収録曲も取り上げられた[注釈 33][63][64]

同年6月末、解散を発表[65]。同年8月、ライブ・アルバム『VIVA!ロキシー・ミュージック』が発表された。
1978年 - 1983年

解散後、ソロ活動を行なっていたフェリー[66][注釈 34]、イーノと結成した801やフェリーのソロ・ツアーで活動していたマンザネラ、TV番組『ロック・フォリーズ』の音楽監督などを務めたマッケイ、フェリーのソロ活動に協力していたトンプソンの4人は、1978年にロキシー・ミュージックを再結成[67]。これまでのベースに加えてキーボードにも準メンバーが起用されることになった。

1979年3月、ゲリー・ティブス(ベース)、アラン・スペナー(ベース)、ポール・キャラック(キーボード)を起用して、4年ぶりの新作アルバム『マニフェスト』を発表。以前よりもポップな音作りに変化した[独自研究?]が、退廃的な美学は不変であった。同アルバムは全英チャートで最高位7位[68]を記録して計34週間に渡って登場し続け、全米チャートでも最高位23位[69]を記録した。「ダンス・アウェイ」がシングル・カットされて全英2位[70]。アルバム発表に伴なってワールド・ツアーが始まり、ヨーロッパ、アメリカ、さらに4月末には初の日本公演が行なわれ、5月の約3週間のイギリス・ツアーで幕を閉じた[注釈 35][71][72]

同年後半、デビュー当時からのメンバーで、ファンからThe Great Paul Thompsonの称号を与えられて[73]熱烈な支持を受けてきたトンプソンが、新作アルバムの制作が始まる前に脱退[74]。正式メンバーはフェリー、マンザネラ、マッケイの3人になった。ドラムスにもセッション・ミュージシャンを起用して、1980年5月にアルバム『フレッシュ・アンド・ブラッド』を発表[74]。オリジナルの新曲に加えて初めて他人の曲を取り上げた[注釈 36]同アルバムは6月に全英チャートの首位を記録し、一週間でその座を降りたものの、8月末に再度返り咲き、そのまま9月にかけて3週間居座った[75]。彼等のアルバムが全英で首位に立ったのは、『ストランデッド』(1973年)以来だった。同年後半に「オーヴァー・ユー」、「オー・イエー」、「セイム・オールド・シーン」がシングル・カットされ、前2曲はいずれも全英チャートで5位、「セイム・オールド・シーン」は全英12位を記録し[75]、同年公開されたアメリカ映画『タイムズ・スクエア』で使用された。ツアーは5月から8月までヨーロッパとイギリスで行なわれ、ティブス、キャラック、アンディ・ニューマーク(ドラムス)、ニール・ハバード(ギター)が参加した[76]

同年12月8日にジョン・レノン射殺されると、彼等はドルトムントのWestfalenhallenで12月19日と20日に開かれたRock Popに両日出演してコンサートを開いた際、最後にレノンを追悼して「ジェラス・ガイ」を披露した。その翌週に同曲を録音して1981年2月に発表すると、彼等のシングルで初めて全英チャートの首位に輝いた[77]

1982年5月、復活第3弾アルバム『アヴァロン』を発表。全英1位を獲得[78]し、彼等のアルバムで最も評価が高く[79]人気がある[43]とされる。先行シングル『夜に抱かれて』は全英6位を記録した。その後、1982年8月中旬から10月1日までヨーロッパ各国[注釈 37]とイギリス、1983年2月に日本、同年4月末から5月末までアメリカとカナダと大規模なワールド・ツアーが行なわれ、3人の正式メンバーとニューマーク、ハバード、スペナー、フォンジ・ソーントン(バック・ヴォーカル)らの計11人がステージに立った[80]。8月27日のフレジュス公演の模様は、VHS『ザ・ハイ・ロード』(1983年)[81][注釈 38]として発表された。


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