R&D_SPORT
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株式会社アールアンドデースポーツ
R&D SPORT Co., Ltd.
種類株式会社
本社所在地 日本
〒254-0012
神奈川県平塚市大神2584-1
設立1991年11月7日
業種輸送用機器
法人番号5021001039203
事業内容レーシングカーの製作、販売及びメンテナンス受託
レーシングチーム運営
マリンスポーツ商品販売
自動車部品の販売、販売
設計開発業務の受託
代表者代表取締役社長 本島伸次
資本金1,000万円
外部リンク ⇒http://www.rdsport.net/
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R&D SPORT国籍 日本
本拠地神奈川県平塚市
チーム代表本島伸次
関係者辰己英治(STI 総監督)
活動期間1992年 - 現在
カテゴリJGTCSUPER GT
公式サイト ⇒R&D SPORT
2021年のSUPER GT (GT300)
エントリー名R&D SPORT
レーサー 井口卓人
山内英輝
マシン61. SUBARU BRZ R&D SPORT
タイヤダンロップ
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R&D SPORT(アールアンドディースポーツ)は、日本のレーシングチーム。正式商号は株式会社アールアンドデースポーツ。

元々はレーシングカーコンストラクターの東京R&Dの関連会社だったが、2008年3月末で資本関係を解消している[1]目次

1 レース参戦歴

1.1 2001年

1.2 2002年

1.3 2003年

1.4 2004年

1.5 2005年

1.6 2006年

1.7 2007年

1.8 2008年

1.9 2009年

1.10 2010年

1.11 2011年

1.12 2012年

1.13 2013年

1.14 2014年

1.15 2015年

1.16 2016年

1.17 2017年

1.18 2018年

1.19 2019年

1.20 2020年

1.21 2021年


2 脚注

3 外部リンク

レース参戦歴
2001年

全日本GT選手権(JGTC:現 SUPER GT)GT300クラスに、ポルシェ・911 GT3Rの2台体制で参戦を開始する。62号車をエースカーとし、もう1台の63号車はレイジュンとのジョイントによる参戦であった。前年の同型車の活躍を受けて性能調整が施された関係で、苦戦を強いられたが、最終戦の第7戦でポールポジションを獲得した。しかし勝利を挙げることができなかった。
2002年

引き続きJGTCに2台体制で参戦。62号車は前年の911 GT3Rに換えて、イギリスのVEMACと共同開発して制作されたヴィーマック・RD320Rを第2戦より投入。エンジンはホンダ・C32B型 V6エンジンを改造し搭載された。デビュー戦ではポテンシャルの高さをアピールし、パーフェクトウィン(ポールトゥーウィンファステストラップ)を達成した。もちろんチームにとって初めての勝利となった。

その後は速さをアピールしたものの、開発途上のマシンのため信頼性に欠けトラブルでリタイヤするケースが目立った。鈴鹿1000kmでの勝利を挟んで後半戦からは信頼性があがったものの、あまりにポテンシャルが高すぎてライバルとは桁違いの差があったため、度重なる性能調整が施されてしまう。しかし、それでもRD320Rは順調に勝利を重ねた。そして、最終戦では性能調整としてウェイト150kgととてつもない調整が施されてしまう。そのため、チャンピオン獲得はならなかった。

この年の成績は、62号車はポールポジション4回、優勝3回。63号車は引き続きマシンの戦闘能力が低いため苦戦したものの、第3戦で混戦の中着実に順位を上げ、3位を獲得した。
2003年

GT500クラスにステップアップを果たす。GT500への参戦にあたって大幅な戦闘力の向上が必要であり、新型マシンヴィーマック・RD350Rが製作され、前年デビューウィンを飾った富士スピードウェイでデビューした。

しかし、GT500では巨大な設備を持ったワークス・チームが相手となるため、彼らに比べて設備面で劣り開発もそれほど早く進めることはできなかったRD350Rは苦戦を強いられ、シーズンを通して上位に進出することはできなかった。また、350Rは320Rと車体面で大きな差がなく、エンジンもザイテック製 ZV348型 V8エンジンがリストリクターの関係でパワー不足であったことも原因であった。しかし、第4戦ではタイヤ選択のおかげでコースコンディションの変化に対応ができ、その結果8位を獲得した。

なお、自らのチームでGT300クラスには参戦しないものの、プライベーターに前年参戦していた320Rを供給した。
2004年

前年の苦戦を受け、専用マシンを新規に開発する必要があったため開発に専念することとなり、JGTCへのフル参戦はしなかった。

その代わり、かつてジョイント参戦したレイジュンが前年の最終戦よりRD320Rで参戦。マシンメンテナンスを担当し、間接的ではあるがGT300クラスに復帰した。マシン開発は順調に進み、秋頃にはマシンが完成しシェイクダウンが行われた。このマシンはヴィーマック・RD408Rという車で、エンジンはRD350Rのザイテック製エンジンが非力であったことを反省し、新たにM-TEC製 MF408S型 V8エンジンが搭載された。

当初は翌年から参戦の予定だったが、先行的に最終戦にスポット参戦することになった。結果は序盤のアクシデントに巻き込まれたせいで上位に進出することはできなかったが、大きなトラブルもなく完走した。
2005年

RD408RでSUPER GT(この年にJGTCから名称変更)GT500クラスに参戦を予定していたが、急遽予定を変更し、2003年にGT500に参戦したRD350RをGT300に投入し参戦することとなった。しかし、アクシデントに巻き込まれたり、アクシデントの原因を作ってしまったこともあったため、思ったほどの活躍ができずにシーズンを終えた。

また、この年より参戦したディレクシブとこれまでNSXで参戦してきたベルノ東海ドリーム28のRD320Rのメンテナンスを担当した。
2006年

RD350Rに代わって、GT300クラスに、2004年の最終戦にGT500クラスでスポット参戦したRD408Rで参戦した(同じ車だが、クラスダウンに伴いリストリクター制限が厳しくなり、エンジン出力等は低下している)。第3戦でチームとしては2002年の第7戦以来となる優勝を飾った。

第5戦より柴原眞介のパートナーが八木宏之から黒澤治樹に変わった。最終戦でもトップを快走していたが、最後の最後でガス欠になってしまいリタイアとなってしまった。しかし、このことが今シーズンのタイトル争いに大きく影響したといえるだろう。

また第7戦より、前戦(鈴鹿1000km)を最後に活動中止となったディレクシブに代わってRD320Rを走らせることとなった。これは、ディレクシブでドライブしていた密山祥吾谷口信輝のドライバーズランキングがトップであることから、このまま参戦継続しドライバーズタイトルを獲得しようということで、メンテナンスを請け負っていたR&Dがエントラントとなって参戦することになった。監督には鈴木利男を新たに迎え入れ盤石の体制で残り3戦を戦う。これにより、新マシン名は「アネブルADVAN RD320R」となった。しかし、資金不足によりテストに参加できなかったことが原因で失速してしまい、ラスト2戦の大事なところでノーポイントに終わりタイトル獲得はならなかった。結果はシリーズ3位となっている。
2007年

前年同様GT300クラスにRD408Rを開発しながら参戦する事となった。ドライバーも柴原と黒澤のコンビで継続される。第5戦より従来のマシンでのノウハウをもとに新たに制作された新車にスイッチした。この新車投入後、調子が上向き第6戦では3位、第7戦では2位、第8戦では優勝という3連続表彰台で一気にタイトル争いに加わるが、最終戦ではウェイトハンデが重く本来の走りができず、惜しくもタイトル獲得を逃したが、シリーズ3位という成績を獲得した。
2008年

SUPER GTにおける体制面やドライバーやマシンは前年と変わらず同じ布陣での参戦となったが、第1戦の鈴鹿で予選中に柴原眞介がクラッシュにより負傷したため、第2戦以降代役として密山祥吾が参戦。規定変更に伴い前年よりコーナースピードを上げる改良を施したが、それが裏目となりストレートスピードがまったく伸びない事態に見舞われ前年の勢いを失ってしまった。第5戦に開幕戦で負傷した柴原が復帰を果たした。結局前年同様の活躍を見せることなく、この年は優勝を果たすことができず、最終戦で2位に入ったのが唯一の表彰台となった。

またこの年には、ル・マン24時間レースに参戦する東海大学チームの監督を務める林義正から支援を求められ、同チームにメカニックの派遣等の協力を行っている。
2009年 富士重工業 スバル・レガシィB4(2009年仕様)

RD408Rから、スバル・レガシィ B4に車両を変更し、第6戦鈴鹿より出場した。デビュー戦では予選中にフロントデフのトラブルにより出火し、出走を取りやめた。


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