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ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(ラテン語: Lucius Cornelius Sulla Felix、 紀元前138年 - 紀元前78年)は、共和政ローマ期の軍人・政治家。マリウス・キンナ派との内乱に勝利した後、終身独裁官(ディクタトル)に就任した。反対派に対しては激しい粛正を行ったものの、伝統的なローマの支配体制を立て直すことに尽力しており、「最後の共和主義者」と呼ぶ学者もいるなど、その評価の分かれる人物である。

キケロが『カエリウス弁護』で述べているが、古代ローマにおいては、若者の放蕩はある程度は許容されるものとみなされており、スッラもその例に漏れず、若い頃は自堕落な生活を送っている。著名なコルネリウス氏族の出自ではあったが、スッラ家は傍系であり資産もなく、政界進出は遅れた。頭角を現し始めたのはユグルタ戦争の頃である。ガイウス・マリウス配下のクァエストルとして騎兵を率いたスッラは、ボックス1世の信頼を勝ち取り、ユグルタを捕らえることに成功した。更にキンブリ・テウトニ戦争でもその力量を発揮し、尊大なスッラはマリウスから疎まれ、ライバル視されるようになった。

44才でプラエトルに当選すると、翌年にはプロプラエトルとしてキリキアを担当し、パルティアとも交渉している。これ以外にも出過ぎた行為がありマリウスらとの決裂が決定的なものとなるが、続いて勃発した同盟市戦争ではマリウスと互角の戦功を挙げ、その地保を固める。50才にして執政官に当選すると、マリウスを抑えてミトリダテス戦争インペリウムを得るが、マリウス側がこのインペリウムを奪う法を通したため、ローマへと兵を向け、マリウス派を追放した。

ミトリダテス戦争では本国からの支援が期待出来ない中、敵の大軍をカイロネイアの戦いなどで幾度も破り、ついにポントゥスミトリダテス6世を屈服させる。しかしその頃ローマでは、スッラが執政官就任を許可したルキウス・コルネリウス・キンナがその実権を握り、スッラ派を粛正していた。スッラは再度ローマへと侵攻することになる……続きを読むカテゴリ
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特集項目 - 王政ローマカステル・ガンドルフォから見たアルバーノ湖アルバ・ロンガはこの付近に存在したと言われている。

アルバ・ロンガ (Alba Longa) は、ラティウムにある古代ローマの母市となったラテン人都市国家。ローマの南東アルバーノ山地に位置したと考えられている。

その名はラテン語で「長く白い都市」を意味する。

ローマの建国伝説ではトロイアの英雄アエネアスイタリア半島に到着後、ラティウムの王ラティヌスの娘ラウィニアを娶り新市ラウィニウムを創建したとされる。その子アスカニウス(ユルス)がラウィニウムを義母ラウィニアに譲ったあと建設した都市がアルバ・ロンガである。

アスカニウスのあとアルバの王位はアエネアスとラウィニアの息子のシルウィウスが継ぎ、以降アルバの王家は「シルウィウス」を名乗った。アスカニウスから数えて12代目の王プロカの死後、その息子ヌミトルアムリウスの間で王位継承の争いが起こり弟のアムリウスが王位を簒奪する。しかしヌミトルの娘レア・シルウィアの産んだ双子の兄弟ロームルスレムスは祖父の復位に協力し、アムリウスは倒されヌミトルがアルバ王となる。双子の兄弟はアルバの住人の一部を率い新たな都市を作るためアルバを去り、紀元前753年にロームルスによってローマ市が創建された。

ローマの3代目の王トゥッルス・ホスティリウスは戦争を好む人物でアルバ・ロンガに戦争を仕掛けた。このときのアルバの王はガイウス・クルウィリウスであった。クルウィリウスはローマの近郊にまで進軍し陣を構えたがここで急死し、そのあとはメッティウス・フフェティウスが指揮を担当した。その後有名なホラティウス三兄弟とクリアティウス三兄弟による決闘が行なわれローマ側が勝利し、アルバはローマに従った。しかしメッティウスはやがて裏切りを画策した末処刑され、ホスティリウスによってアルバは破壊されその住民はすべてローマのカエリウス丘に移され……続きを読む
特集項目 - 共和政ローマキンブリ・テウトニ戦争の勝者ガイウス・マリウス1863年

紀元前509年、ローマ王タルクィニウス・スペルブスの追放によって共和政ローマが成立し、王の権能ケントゥリア民会によって選出される一年任期の2人の執政官に受け継がれることになった。しかしこの執政官職や、国政のほぼ全てに関わる鳥卜権パトリキ(貴族)が独占していたため、プレプス(平民)と度々衝突することになる。

プレプスは護民官の設置、十二表法の成立、プレプスのみで開催されるプレブス民会や、執政官の代わりに平民でも就任可能なトリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテ(執政武官)職の設置などを長い闘争を経てを勝ち取り、紀元前367年リキニウス・セクスティウス法によって執政官職、紀元前300年オグルニウス法によって神官職への就任を認められるようになった。


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