Portal:古代ローマ
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プレプスは護民官の設置、十二表法の成立、プレプスのみで開催されるプレブス民会や、執政官の代わりに平民でも就任可能なトリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテ(執政武官)職の設置などを長い闘争を経てを勝ち取り、紀元前367年リキニウス・セクスティウス法によって執政官職、紀元前300年オグルニウス法によって神官職への就任を認められるようになった。

こうして法的にパトリキと同様の地位を勝ち取ったプレプスからは、マニウス・クリウス・デンタトゥスのような英雄も現れ、第二次ポエニ戦争期にはガイウス・フラミニウスガイウス・テレンティウス・ウァロのような敗将も生まれたが、力をつけていった氏族は、徐々に体制に取り込まれていき、プレプスの権利を守るために創設された護民官の性格も変わっていく。執政官を出した氏族は、パトリキとプレプスを合わせて「名を知られたものたち」という意味のノビレスと呼ばれるようになり、共和政の後期にはノビレス同士に加え、主に地方出身のノウス・ホモ(新人)との生き残りをかけた熾烈な選挙戦を展開するようになる……続きを読む
特集項目 - 帝政ローマ帝政時にローマ皇帝が治めた属州一覧

ローマ皇帝一覧では、古代ローマ帝国で正当と見なされたローマ皇帝を年代順に列挙する。

ローマ皇帝という名称は幾分、現代的な用法であって必ずしも当時の人間がその様に呼称したものではないし、時代毎に制度上の位置付けも変動している。しかしどうあれ、アウグストゥス以降にローマという国家で定着した「個人に専制的な権限を与える習慣」を端的に表現する上で、的確な用語であると多くの場合で見なされている。古代にヨーロッパとその近隣で強大な勢力圏を作り上げたローマは、共和制から君主制へと大きく政治制度の改革を行い、議会政治(「元老院及びローマ市民」)から個人による独裁への転換を事実上容認するようになった。

しかし、こうした体制を確立したアウグストゥス元老院議会)への配慮から共和制を建前上には維持する道を選び、「共和制における独裁」を模索した。従ってアウグストゥスはかつて存在した「ローマ王」や、それに比類する如何なる爵位や君主号を拒否した。その一方で共和制に存在した様々な役職や特権を自らや一族の独占とし、更に元老院を監督する立場にあるプリンケプス・セナートゥスを終身の称号として受け取った。アウグストゥスと共に初期のローマ皇帝とされる人々も一様にこうした方策で独裁体制を築き上げたため、独裁的で血統主義的な要素(アウグストゥスも最後まで親類での権力継承を望んだ)を持ちつつも、議会が一定の力を維持していた。歴史学者達はこれを元首政と呼び、単なる「専制的な君主制」とは異なるものであると評価し…続きを読む
特集項目 - 西ローマ中世時代に描かれたカタラウヌムの戦い

カタラウヌムの戦い(カタラウヌムのたたかい, フランス語読みでシャロンの戦いとも、英:Battle of Chalons)は、ゲルマン民族の大移動の時代にフン族と西欧諸民族連合軍の間で行われた会戦である。両軍合せ約5万名が参戦し、うち1万名が戦死するという大激戦となった。

451年アッティラの率いるフン族はライン川を渡り、ガリアに侵攻し、オルレアンを包囲した。西ローマ帝国の将軍アエティウスゲルマン諸族の軍と共にこれを討ちカタラウヌムの野(今の北フランスシャロン=アン=シャンパーニュ付近)で決戦した。激戦の末、アッティラは大打撃を受けて本拠のハンガリー平原に退き、西欧はフン族の征服を免れることができたが、フン族の勢力は維持された。

ローマ軍側も追撃不可能なほどの被害を受けたことで、西ローマの勢力は弱まり、ガリアへのフランク族の侵入が始まることとなった。この決戦は世界史上の東西両民族の大衝突の一つとしても……続きを読む
特集項目 - 東ローマ1265年のバルカン半島及び小アジアを表した地図

トレビゾンド帝国(トレビゾンドていこく、Trebizond, 1204年 - 1461年)は1204年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス第4回十字軍によって陥落させられた際に、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権の一つ。トレビゾンド(ギリシア名トラペズス、現在のトルコ共和国トラブゾン)を首都とした。

東ローマ皇帝アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年 - 1185年)の孫アレクシオス・コムネノス1204年4月、トレビゾンドを占領して建国。コムネノス王朝1081年 - 1185年)の本流を継ぐものとして、「メガス・コムネノス(大コムネノス家)」と称した。しかし実際は、建国に尽力したグルジア王国の傀儡にすぎなかった。

当初は東ローマ帝国の亡命政権の中では最初にコンスタンティノポリスを奪還する勢いであったが、他の亡命諸侯との連携を欠いたため、同じ亡命政権のニカイア帝国やトルコ人のルーム・セルジューク朝に敗北し、小アジア北東部・ポントス地方の地方政権に転落してしまった。しかし、東ローマ帝国滅亡後の1461年オスマン帝国によって滅ぼされるまで約250年間存続し、史上最後の東ローマ系国家となった。国家としてはあまり強大ではなかったが、東西交易路の途上に位置するその地理的状況はこの国に多くの富をもたらし、また周辺のグルジアアルメニアなどのキリスト教文化圏との交流も盛んであった。外交上は東方のイスラーム諸勢力、特に白羊朝ペルシアと婚姻関係を基にした同盟関係を結ぶなどして独立維持を図っている……続きを読む












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