PlayStation_(ゲーム機)
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この項目では、1994年の初代機について説明しています。シリーズ全体については「PlayStation」をご覧ください。
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PlayStation
プレイステーション


メーカーソニー・コンピュータエンタテインメント
種別据置型ゲーム機
世代第5世代
発売日 1994年12月3日
1995年9月1日
1995年9月29日
1995年11月15日
1997年2月
CPUR3000A 33.8688 MHz
対応メディアCD
対応ストレージメモリーカード
PocketStation
コントローラ入力プレイステーションコントローラ
アナログコントローラ
DUALSHOCK
DUALSHOCK 2
外部接続シリアルポート
パラレルポート(SCPH-7500まで)
2G回線[注釈 1]
オンラインサービスiモード
売上台数 1,900万台[1]
3,967万台[2]
3,961万台[2]
1億240万台[3]
最高売上ソフト ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち /406万本[4]
グランツーリスモ /1,085万本[5]
互換ハードウェアPS one
次世代ハードウェアPlayStation 2
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PlayStation(プレイステーション、略称: PS, PS1[注釈 2])は、ソニー・コンピュータエンタテインメント(略: SCE)[注釈 3]1994年12月3日に発売した家庭用ゲーム機
概要

1990年代中期に「次世代機」と呼ばれた家庭用ゲーム機の一つ。開発を主導した久夛良木健の独特の技術論により、家庭で本格的なテクスチャ付き3Dグラフィックを実現した初めてのゲーム機である。

本機は既存のゲーム機同様に横置きを踏襲しているが、3Dグラフィックを実現するために、メディア媒体には当時としては大容量のCD-ROMを採用し、セーブデータの保存にメモリーカードを採用している。また、デザインにも拘り、ゲーム機本体に搭載されているトップローディングには円形型の蓋を採用している。特にコントローラーは従来の平面的なデザインではなく、立体的なデザインを採用したことで直観的に使える操作性を実現している。

CD-ROMの採用により、大量生産とコストダウン、ソフトの低価格化を実現し、販売面においては、丸山茂雄らによる従来のゲーム機ビジネスとは異なるレコードビジネス仕込みの販売戦略を採ったことで、流通面でも優位に立てた。

さらに、これまでのゲームCMとは異なるユニークで斬新な演出のテレビCMに加えて、自社発売ソフトの多くが大ヒットしたことにより、新規ユーザーやライトユーザーの取り込みに成功しただけでなく、ファイナルファンタジーVIIドラゴンクエストVIIといったサードパーティのキラータイトルの登場も追い風となり、セガ・エンタープライゼス(現・セガ)のセガサターン任天堂NINTENDO64と共に次世代機戦争と呼ばれた[6]市場競争に勝利し、ファミリーコンピュータのヒット以来任天堂が独占していた市場でトップシェアとなった。

同社の次世代機である『PlayStation 2』が2000年3月4日に発売されたが、以降も本機は『PS one』として発売され2006年まで生産された。
歴史年表形式の記述については「#年表」を参照
開発の経緯

任天堂スーパーファミコンPCM音源を提供する事業の仕掛け人だった久夛良木が、同事業に引き続き、スーパーファミコンのCD-ROMドライブを拡張する共同開発事業の約束を任天堂と取り付けたのに端を発する。
任天堂との共同開発

久夛良木は1987年6月16日から2泊3日にわたるソニーと任天堂の合同合宿に、スーパーファミコン開発が一段落した1989年頃にも提案している。当時の任天堂はCD-ROMに消極的で「ソニーさんでやってください」と返答している。丸山によれば久夛良木は京都の任天堂本社に通っている間中「CD-ROMでやるべきだ」と粘り強く進言し続けた結果、任天堂は「どうにもならないと思うが、CD-ROMをやっていい」とOKを出した[7][注釈 4]

1989年4月にテレビゲームではなく液晶画面を持ったカセット式のハンディーゲームマシン「ゲームボーイ」が発売され大ヒットしていたが、ファミコンの人気は既にピークを過ぎかけている事が前年の実績から明らかになっていた。後にも、ソフトメーカーのスタンスは変わらず問屋の倉庫は売れないソフトが大量に溢れることになった。そして任天堂はファミコンの後継機(スーパーファミコン)の市場投入を決意した事で、そこからソニーとの関係が始まった[9]

当時の久夛良木は業務用のデジタルビデオエフェクタ「システムG」をゲームに転用してビジネス化出来ないかと考えていた[10]。ただし、当時ソニー内ではソニーのイメージを損なうとしてゲーム事業への進出に反対する社員が多く、久夛良木自身も「異端児」と呼ばれており逆風が強かった。この事業にゴーサインを出したのが当時社長の大賀典雄である。

1989年10月から共同開発が始まり、翌1990年1月1日には大賀典雄(ソニー)と山内溥(任天堂)の間で両社の締結を確認する合意文書が作られた。プレイステーションはこのプロジェクトでソニーが全世界的に商標権を登録した商品名[11][12][13]であった。プレイステーションという名称は久夛良木が名付けた[14]

計画では、CD-ROMアダプタは玩具流通で任天堂が発売し、CD-ROM一体型のスーパーファミコン互換機は家電流通を使ってソニーが発売することとなっていた。参考にされたのはファミコンに磁気ディスクドライブを拡張するファミリーコンピュータ ディスクシステムである。ディスクシステムにおいてファミコンに接続する周辺機器は任天堂が発売し、一体型マシンツインファミコンシャープを発売したパターンがCD-ROMにおいても踏襲されることになった[15]。そしてソニーはプレイステーションを49,800円の価格で1991年秋から発売を予定し[16]、初年度目標を300万台としていた[17]。久夛良木の構想ではこのプレイステーションは任天堂のゲームを中心とした当初はゲーム機として普及させ、やがてCDプレーヤーレーザーディスクプレーヤーなどと融合し、将来的には出版や教育も取り込むという家庭用コンピュータのインフラを狙っていた[18]
任天堂の共同開発の破棄プレイステーション(試作機)スーパーディスクのロゴ

こうして1991年6月1日のシカゴでコンシューマー・エレクトロニクス・ショーにおいて、ソニーがプレイステーション試作機を発表したが、一方で任天堂はソニーとの共同開発計画ではなく、フィリップスとの提携と、CD-iでのゲーム開発を発表した[19]。久夛良木は5月29日の時点で任天堂とフィリップスが共同開発する件を把握しており、出井伸之とともに任天堂本社を訪ねて問いただすと、任天堂の言い分は「ソニーとの契約は履行する」[20][21]、「契約は生きており、ソニーがスーパーファミコンと互換性のあるCD-ROMマシンを発売するのは構わないが、任天堂がスーパーファミコンに採用するCD-ROMアダプタはソニーとは別の規格を採用する[22]というものだった。肝心の任天堂からCD-ROMゲームが供給されないのなら、プレイステーションはスーパーファミコンより2万円以上高価なスーパーファミコン互換機でしかなかった[23]。そのためその後も交渉が続けられたものの任天堂の決定は覆らなかった。

任天堂がフィリップスと共同開発することにした理由として、当時の関係者はCD-ROMやゲームソフトのライセンスにあったとしている。
スーパーファミコンCD-ROMソフトはスーパーディスクと名付けられ、任天堂ではなくソニーがライセンスを有することになっていた。当時のコンシューマー機のソフトはROMカセットが主流であり、CD-ROMは付属的な立場のメディアとして認識されていたため、任天堂はCD-ROMの権利を重視していなかった。しかし、任天堂米国法人社長だった荒川實がアメリカのコンピューター業界でのCD-ROMの躍進ぶりを目の当たりにしており、この契約のままだと任天堂がソニーの従属的立場になると危機感を抱き、山内溥にソニーとの提携を止めるように口説いたとされている[22][注釈 5]。丸山も同様の発言をしている[7]

また、当初ソニー側はハード開発のみを行うはずだった。しかし、ソニーが自前のソフトで試供品を実演していた。それを知った山内溥社長(当時)は激怒していたという[25]

ファミコンスペースワールド92の会場でスーパーファミコンCD-ROMアダプタは発売延期が決まると同時に32ビットCPUを搭載する仕様変更が発表された[26]がソニーだけの規格では市場が広がらないと判断されたことから、スーパーファミコン互換機は開発を中断することになり、既にゲームソフトの製作を進めていたソニー・ミュージックエンタテインメントは、マーク・フリントによる『フォルテッツァ』[6](5億円を投じていた)、『沈黙の艦隊』『フック』などを没企画にし、15億円の損失を出したとされる[27]

これらの騒動により、久夛良木ら開発陣は社内での居場所を無くすが、大賀典雄の判断により、丸山茂雄率いるソニー・ミュージックエンタテインメント(現・ソニー・ミュージックレーベルズ[注釈 6])のゲーム部門に一時的に避難させられることになった。
ソニー単独でのプロジェクト再始動

1992年6月24日のソニーの経営会議で、ゲーム事業への進出の是非が議論になり、大半の役員が反対意見を投じる中、経緯説明のために会議に参加した久夛良木が、「我々は本当にこのまま引き下がっていいんですか。ソニーは一生、笑いものですよ」と食ってかかり[22]、試作品はほぼ出来上がっている事を公表。最終的に大賀が久夛良木に「そんなに言うならやってみろ!」と叫び、「DO IT!」[注釈 7]と声を張り上げながら机を叩いた事で[29]ゴーサインを出し、ゲーム事業への進出を決断した。

なお、大賀はプレイステーション製作にあたり、社内のコンセンサス形成のみならず、ゲーム機製作自体にも深く関わっており、業界標準とも言える任天堂型のコントローラからの脱却を図るグリップ型のコントローラーを作るように指示し、何度もダメ出しをしている[22](本体・コントローラーのデザインは後藤禎祐が担当)。


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