こうして1991年6月1日のシカゴでコンシューマー・エレクトロニクス・ショーにおいて、ソニーがプレイステーション試作機を発表したが、一方で任天堂はソニーとの共同開発計画ではなく、フィリップスとの提携と、CD-iでのゲーム開発を発表した[19]。久夛良木は5月29日の時点で任天堂とフィリップスが共同開発する件を把握しており、出井伸之とともに任天堂本社を訪ねて問いただすと、任天堂の言い分は「ソニーとの契約は履行する」[20][21]、「契約は生きており、ソニーがスーパーファミコンと互換性のあるCD-ROMマシンを発売するのは構わないが、任天堂がスーパーファミコンに採用するCD-ROMアダプタはソニーとは別の規格を採用する[22]というものだった。肝心の任天堂からCD-ROMゲームが供給されないのなら、プレイステーションはスーパーファミコンより2万円以上高価なスーパーファミコン互換機でしかなかった[23]。そのためその後も交渉が続けられたものの任天堂の決定は覆らなかった。
任天堂がフィリップスと共同開発することにした理由として、当時の関係者はCD-ROMやゲームソフトのライセンスにあったとしている。
スーパーファミコンCD-ROMソフトはスーパーディスクと名付けられ、任天堂ではなくソニーがライセンスを有することになっていた。当時のコンシューマー機のソフトはROMカセットが主流であり、CD-ROMは付属的な立場のメディアとして認識されていたため、任天堂はCD-ROMの権利を重視していなかった。しかし、任天堂米国法人社長だった荒川實がアメリカのコンピューター業界でのCD-ROMの躍進ぶりを目の当たりにしており、この契約のままだと任天堂がソニーの従属的立場になると危機感を抱き、山内溥にソニーとの提携を止めるように口説いたとされている[22][注釈 5]。丸山も同様の発言をしている[7]。
また、当初ソニー側はハード開発のみを行うはずだった。しかし、ソニーが自前のソフトで試供品を実演していた。それを知った山内溥社長(当時)は激怒していたという[25]。
ファミコンスペースワールド92の会場でスーパーファミコンCD-ROMアダプタは発売延期が決まると同時に32ビットCPUを搭載する仕様変更が発表された[26]がソニーだけの規格では市場が広がらないと判断されたことから、スーパーファミコン互換機は開発を中断することになり、既にゲームソフトの製作を進めていたソニー・ミュージックエンタテインメントは、マーク・フリントによる『フォルテッツァ』[6](5億円を投じていた)、『沈黙の艦隊』『フック』などを没企画にし、15億円の損失を出したとされる[27]。
これらの騒動により、久夛良木ら開発陣は社内での居場所を無くすが、大賀典雄の判断により、丸山茂雄率いるソニー・ミュージックエンタテインメント(現・ソニー・ミュージックレーベルズ[注釈 6])のゲーム部門に一時的に避難させられることになった。 1992年6月24日のソニーの経営会議で、ゲーム事業への進出の是非が議論になり、大半の役員が反対意見を投じる中、経緯説明のために会議に参加した久夛良木が、「我々は本当にこのまま引き下がっていいんですか。ソニーは一生、笑いものですよ」と食ってかかり[22]、試作品はほぼ出来上がっている事を公表。最終的に大賀が久夛良木に「そんなに言うならやってみろ!」と叫び、「DO IT!」[注釈 7]と声を張り上げながら机を叩いた事で[29]ゴーサインを出し、ゲーム事業への進出を決断した。 なお、大賀はプレイステーション製作にあたり、社内のコンセンサス形成のみならず、ゲーム機製作自体にも深く関わっており、業界標準とも言える任天堂型のコントローラからの脱却を図るグリップ型のコントローラーを作るように指示し、何度もダメ出しをしている[22](本体・コントローラーのデザインは後藤禎祐が担当)。後藤禎祐がデザインの依頼を受けた時期は、細かな仕様だけでなく基板の大きさも決まっていなかった。本体を真上から見ると、四角に丸がついたシンプルな構成である。後藤氏は熊さんの顔と言って笑うが、このわかりやすさもソニーらしさの重要なファクターとなる。「ソニーらしさは、無駄な造形に入り込んでいかない。それは飽きてしまう原因になったりするので長続きしないんです。シンプルな形、クリーンなイメージ。そういう媚びないデザインだと思う。中身の機能を素直に表していけば、必ずシンプルで飽きのこないいいモノができるだろうと、僕は昔からそういうデザインポリシーでやってきました。」と述べている。[30] また盛田昭夫もゲーム事業のプレゼンを聞いた後、久夛良木の手を握って「これはおもしろい。こういうビジネスを望んでいたんだ」とチームを激励したという。ただ後述の通り、盛田は「プレイステーション」という名前を再検討するよう指示した(その後盛田は病に倒れた。内海州史は、あのまま盛田が健在であれば「プレイステーション」の名称は変わっていたかもしれないと記している[31])。 1992年夏から正式に「PS-X」プロジェクトが立ち上がり[32]、1993年11月16日にソニーの技術者と株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントのコンピュータゲーム製作部門のスタッフら65人で構成される株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメントが設立。1994年5月10日に多くのゲーム雑誌関係者が見守る中、進捗報告会が行われた[33]。「PS-X」と呼ばれていたマシンの正式名称を「プレイステーション」と発表した[34]。同時にコンピュータグラフィックで描かれたデモ映像を会場で流し、本体のモックアップを展示した。グレイの本体はノートパソコンくらいの大きさ、パッドは流線形のデザインで、背面にはLRボタンのような4つのボタン、本体のパッド接続部分の上にメモリーカードスロットが設置されていた[33]。本来、プレイステーションはスーパーファミコン互換のCD-ROMゲーム機で使われる予定だった名称であり、これを流用したものである。頓挫した商品と同一名は縁起が悪いという意見もあったが、既に全世界ベースで商標権を登録しており、新しい商標にするには調べるだけで半年かかるため、そのまま同一のプレイステーションの名称が採用された[11]。1994年11月にプレイステーションの価格を39,800円、発売日は1994年12月3日と発表した。 久夛良木は仕事で使うコンピュータを「ワークステーション」と呼ぶことに対して、遊びで使うコンピュータという意味で「プレイステーション」に決めた。ユーザー間では「プレステ」と略されることが多いが、CMや自社製品内での記載では一貫して「PS(ピーエス)」と略されている[注釈 8]。
ソニー単独でのプロジェクト再始動
名称の由来と略称