PTA
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この項目では、社会教育関係団体について説明しています。その他の用法については「PTA (曖昧さ回避)」をご覧ください。

日本におけるPTA(ピーティーエー、英語: Parent-Teacher Association)は、各学校組織された保護者と教職員(児童を含まない)による社会教育関係団体。児童・生徒はPTA会員ではない。皆等しく活動の支援対象でもある[1]任意加入の団体

この項目では、各学校のPTA(単位PTA[2]と呼称される)について主に記述する。単位PTAが協働するために集まった、市町村都道府県・全国の各レベルに存在するPTA連合体(PTA連合会)の詳細については、日本PTA全国協議会全国高等学校PTA連合会、全国PTA連絡協議会の項目を参照。
名称

PTAの名称は、学校に通う子どもの保護者(Parent)と教職員(Teacher)からなる団体(Association[3])であることから、各語の頭文字を取ったものである(Parent Teacher Association)。

PTA及び類似の団体について、昭和20年代に用いられた名称としては「父母と先生の会」がある。これは、当時の文部省(現在の文部科学省)が発した通達[4]に基づく名称である。その他にも、「親と教師の会」「保護者と教職員の会」、あるいは「育友会(いくゆうかい)」など、学校ごとに様々な名称が付されることもある[5][6]。各学校のPTAの名称は、各学校のPTAごとの規約により定められる。

なお、これまでの教職員・保護者による組織から発展させる意味で、PTAにC「地域社会(Community)」を加えたPTCAと称するところもある。

また、2010年(平成22年)に公布され、翌年施行[7]されたPTA・青少年教育団体共済法の2条1項には「PTA」の定義がある。PTA・青少年教育団体共済法(平成22年6月2日法律第42号)
(定義)
第2条 この法律において「PTA」とは、学校学校教育法(昭和22年法律第26号)第1条に規定する学校[8](大学を除く。)をいう。以下同じ。)に在籍する幼児、児童、生徒若しくは学生(以下「児童生徒等」という。)の保護者(同法第16条に規定する保護者をいい、同条に規定する保護者のない場合における里親児童福祉法(昭和22年法律第164号)第27条第1項第3号の規定により委託を受けた里親をいう。)その他の文部科学省令で定める者を含む。以下同じ。)及び当該学校の教職員で構成される団体又はその連合体をいう。

本条項の定義による「PTA」には、単位PTAとPTA連合体の両者を含む。
沿革
PTAのルーツ

PTAは、1897年アメリカ合衆国で2人の女性により自発的に結成された[9]。詳細は「#アメリカのPTA」を参照
PTA前史

明治時代に日本に近代的学校制度が導入された際、各学校(特に小学校)の設立・維持の経費は、地方住民の負担によることを原則とした[10]。その後、学校経費は、主に町村費の負担とされていったが、学校予算は必ずしも潤沢ではなかった。そこで、学校運営にかかる金銭的・労務的負担を軽減するため、学校に通う児童・生徒の保護者や学区の住民によって、学校を支援する任意団体も多く結成された。これらの団体は、「後援会」や「保護者会」、「母の会」と呼ばれる[11]。これらの団体は、学校の経済的支援をもっぱらとし、教育活動に関わることはほとんどなかった。

昭和10年代以降、戦争の激化とその後の混乱の影響で、保護者たちによる団体の活動は一時停滞した。しかし、終戦後には荒廃した学校や教育を支える団体の活動が再び始められ、後のPTAの精神を先取りするような活動や運動も各地で試みられた[12]
日本型PTAの登場

1946年(昭和21年)の春、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の要請によりアメリカ合衆国から派遣された教育使節団が作成した報告書、アメリカ教育使節団報告書(第一次報告書)が発表された。同報告書では、PTAに直接言及はないものの、いくつかの箇所でPTAの理念に及ぶ考え方が示された[13]。また、1947年(昭和22年)4月には、極東委員会も「日本教育制度改革に関する指令」を定め、PTAが民主主義教育推進のために積極的な役割を果たすことを期待し、勧奨した[13]

GHQは、これらの基本方針を元に、総司令部の民間情報教育局(CIE)と地方軍政部が担当して、全国の学校へのPTA(父母と先生の会)の設置を奨励・推進した。実際の事務を担った文部省は省内に「父母と先生の会委員会」を設置して審議研究を進め、同委員会は「父母と先生の会‐教育民主化のために‐」と題するPTA結成の手引き書[14][15]を作成した。

1947年(昭和22年)3月、この手引き書は、文部事務次官名で全国都道府県知事にあてて通達された。通達が出された翌年の1948年(昭和23年)4月には、全国の小・中学校のPTA設置状況は7割を超えた[16]1948年(昭和23年)3月には、『〔父母と先生の会〕参考規約(案)』(第一次参考規約とも呼ばれる)が文部省社会教育局社会教育課から出され、1954年(昭和29年)2月には、『小学校〔父母と先生の会〕(PTA)第二次参考規約』が文部省父母と先生の会分科審議会から出された[17]。なお、戦前から存在した各学校の「後援会」などはPTAに看板を変えたり、地域住民を交えた団体としてPTAとは別組織として存続した。

1950年(昭和25年)PTAの全国組織を結成させようと、文部省は積極的に指導するようになる。25の県で早くも連合体(現在の都道府県のPTA連合会、PTA協議会にあたる)が結成されていた。でも、GHQの方針を具体化させようとして働いていた民間情報教育局(CIE)は、「いたずらに全国組織化を促進することは、かえってPTAの健全な発展を阻害する」という理由で、PTAの全国組織をつくるのはまだ早いと考えていた。(CIEはPTAに限らず婦人会や青年団でも同様だった。)PTAの全国連合組織を設立させたいと考えていた文部省に対し、CIE担当官ジョン・ネルソンは講演で、「新しいPTAは古い後援会とほとんど変わっていない。(略)行政が、どんなレベルにしろPTAの連合体を後援することは避けなければならない。補助金も行政による統制もしてはならない(略)。PTAの目標に到達できず、民主的な手続きにも従っていないような満足のいかない地域のPTAグループが連合しても、満足のいかない連合体にしかならないだろう」という旨、述べたという。(-井上恵美子「占領軍資料にみる日本へのPTA導入過程」-)

文部省が全国組織の結成を急いだ背景に、1948年(昭和23年)米国の対日占領政策が転換し、それまで推進されてきた民主化・非軍事化に逆行する動きが強まっていった。これを逆コースといい、1950年(昭和25年)に入ると、共産党が弾圧の対象となり、職場でのレッドパージが行われた。そして、軍国主義者、国家主義者と見なされ公職から追放されていた人々の大幅な追放解除が1949年以降に進められた。1951年(昭和26年)には教職追放の解除によって、民主化のためには不適合とされて教職に就けていなかった教育関係者・管理職たちが学校現場に戻ってくることになった。

「初期PTAにおけるアソシエーション的特性に関する一考察一占領期PTA規約準期等の比較検討を通じて」(山梨大学 平井 貴美代)によれば、規約を具体的に示さなかった文部省[父母と先生の会」資料を除くと、占領期に出された規約準則にはPTA役員の構成について親が中心となることや、役員の資格について「地域ボスを除外することが明記されている。いずれも会の運営を民主化するために、日来の支配者層が影響力を及ぼさないよう規制するための規定であり、占領終結後に改訂された参考規約から当該事項が除外されたのは、いわゆる「逆コース」として説明がつくだろう。会員の権利を保障するはずの「規約は、最終的にはアソシエーションを構想する自由を規制する手段として用いられている。この背景には地方軍政部の成果主義的な性向が垣間見えるが、PTAを受容した側の受け止め方がアソシエーションの本質を必ずしも理解しきれていない側面があったことも否めない。

民生局が戦時下の国家主義、軍国主義を日常的に下支えした隣組・町内会を廃止することを決定し、 1947(昭和22)年5月の政令第 15号(ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く町内会部落会その他の行為の制限に関する件)をもって禁止措置に踏み切ったのである。それを受けて、 6月30日には文部省より各知事、直轄学校長あてに通牒「学校後援会父兄会又はこれに類似する団体に関する件が出されている。通牒の内容は、政令第 15号により解散すべき団体のなかに、後援会、父兄会はふくまれないが、公・教職追放者がこれらの団体の長になっていることは適当ではないとするものであった。

PTA全国実態調査の結果からは、結成のプロセスが旧来の類似組織から自動的に切り替えられたものが多いことや、役員中に顧問、相談役、世話役、参与などの役名を含むといった組織運営上の問題が、地方PTAの多くに見られることが明らかとなったのであった。

1952年(昭和27年)10月14日-16日、東京で「日本父母と先生の会全国団体結成大会」が開かれ、PTAの全国団体が結成された[18][19]
理念と目的

保護者と教員が学びあうことで教養を高め、成果を家庭・学校・地域に還元すること。児童生徒の健全な発達に寄与すること。

同時に、民主的な方法で運営するという設計思想があり、PTAは民主主義の演習の場であるという側面を併せ持つ[20]

寄付金を集めたり、教職員を金銭的に支援することなどは、日本のPTA設立当時本来の理念にはなかった。戦後復興のため、やむなく行われた措置である。それゆえ、PTAの「後援会機能」は「従」の位置に属する[21]。この点は時代を経るにつれ、問題点が整理され、文部科学省よりガイドラインが通知されるに至った[22]
PTAの基本

PTAは官である。民ではなく、学校でもない。教育を本旨とした団体であり、営利を目である。

民主主義の原則にのっとり、自らのあり方を自らで決定していく。発案は会員ならだれでもよく、意思決定の際には、合議を尽くしていくのが原則である。活動にあたっては、活動計画、予算決算、新役員、規約改正、議案その他の承認を、年度初めの総会で行うのが通常である。運営にあたっては、コンプライアンスが求められる。なお、コンプライアンスとは、ここでは「法律や倫理などの要求に『従うこと』」[23]とする。類似組織に特定非営利活動法人(NPO法人)、生活協同組合がある。

児童・生徒は会員ではない。彼らはひとしく支援対象である。

PTAの法的問題は通常、PTA、学校、保護者及び児童の三当事者の問題となっている。PTAと学校とは別団体であるため、公的機関が私的団体を支援するような構造となり、日本国憲法を始め、個人情報保護などの公法上の規定に服する。PTAと保護者とは私人同士の関係にすぎないが、PTAが消費者契約法第2条第2項の「その他の団体」に該当する[24]ので、PTAによる加入の勧誘や、PTAが未加入の保護者との間で契約を締結する場合には消費者契約法が適用される。学校と保護者ないしその保護下の生徒とは一般の在学関係にあり、学校がPTA会員の子供と非会員の子供を差別することは、日本国憲法第14条1項の平等原則の問題になる。

公立の学校教育は、地方分権、教育分権にもとづくものである。地方によって財政事情、教育委員会の見解、学校長の見解、風土、住民気質等はことなるので、その特色により、PTAの活動内容は左右される。PTAは地域差の大きいものである。

私立校のPTAでは保護者・学校教職員・業務の質から希望者が集まりやすい等の事情が異なる傾向がある。
法的位置づけ
根拠法

PTAの結成・加入を義務付ける法律の規定は存在する。通常の単位PTAには、法人格はない。

日本国憲法第21条において、国民は誰しも自由に結社をすることが保障されている。このため、国民は誰でも希望すれば、「任意加入の団体」としてのPTAを結成・解散および参加・脱退することができる。同条により、さらに、PTAは、PTA連合体に加盟・脱退することができる。官公庁に問い合わせるとPTAは社会教育法の第三章「社会教育関係団体」にあたるとの回答を得られるが、同法には「PTA」や旧称である「父母と先生の会」という文字は存在しない。1948年の社会教育局長通牒「地方における社会教育団体の組織について」では、社会教育関係団体への官公庁からのノー・サポート、ノーコントロールの原則が示された。この原則は、1947年に制定された社会教育法[25]に取り入れられており、社会教育関係団体としてのPTAの活動の自主性が確保されている[26]

現行の社会教育法第2条は「社会教育」を「主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう」と定義しており、同法第44条第1項は教育委員会は「学校教育上支障がないと認める限り、その管理する学校の施設を社会教育のために利用に供するように努めなければならない」とするため、PTAが社会教育を行う団体である性格を維持する限り、教育行政上優遇される。

現在では、学校のPTA室を無償で確保でき、学校諸設備を活動に使用できるのは、学校施設令[27]第3条第1項第2号の許可に基づくものである。同条第2項により許可に当たり「他の法令の規定に従わなければならない」とされ、ここでいう「他の法令の規定」とは、最高裁判所平成18年2月7日第三小法廷判決(民集60巻2号401頁[1])により地方自治法第238条の4第4項(現行法では第7項)及び学校教育法第85条(現行法では第137条)となる。学校教育法第137条で「社会教育その他公共のため」と明文化されているため、PTAが社会教育を行わず公共性を失った場合、学校内で活動したり施設を無償で使用したりする法的根拠が失われる。

PTAが、ある保護者が入会しないことを理由に、その子どもを「登校班に入れない」「行事に参加できない」「配布物をわたさない」などと差別することは、社会に非難されるが、PTAが単なる私的団体であるから会員の子どもと非会員の子どもを区別することは事実上可能である。特に学校の外で行う活動について、社会教育法第12条は国や自治体に社会教育関連団体の「事業に干渉を加えてはならない」と命令するため、学校側はPTAに対し指導することが禁じられる。しかし、PTAが学校教育法第137条の「社会教育その他公共のため」の基準に明白に充たさなくなる場合、学校内でPTAが優遇される法的根拠がなくなる。この場合、施設使用の許可が撤回されうる[29]。また、公共性のないPTAによる学校施設の無償利用は、地方自治体の違法な財産管理行為として住民訴訟で問うことができる。PTAによる学校施設の一時使用(PTA室など長期の使用に関する訴訟はまだない)をめぐる住民訴訟において、教育委員会による一時使用の許可の適否を争うことができず(訴え却下)、使用料減免の決定の適否のみを争うことができる。(参考となる判例は、杉並区立和田中学校の地域本部に関する夜スぺ訴訟である。判例タイムズ1370号に詳細がある。)
規約・細則の法的位置づけ

「任意加入の団体」であるPTAが制定する規約・細則は、あくまで団体内部のみに通用するルールである。

規約・細則を制定・改正・運用する際には、上位法である社会教育法教育基本法日本国憲法、また地方公共団体の制定する子どもの権利条例や、国際条約である子どもの権利条約等の理念を理解したうえで行うべきである。ましてや上位法等をはずれた慣習を勝手に制定するべきではない。また個人情報保護法の遵守も忘れてはならない。

「『慣習』を全面に押し出すのは、近代法への全面対決」(木村草太 2013)[30]

司法判断

熊本県で、PTAを相手にした裁判が2014年初夏に起こされた(熊本PTA裁判)。原告は被告PTAに対して、同意書や契約書なしに強制加入させられたうえ退会届が受理されなかったことを訴え、会費などの損害賠償を求めた[31]。2016年2月25日、熊本地裁は原告の訴えを棄却[32]。原告は控訴した。

2017年2月10日、福岡高裁にて熊本PTA裁判は和解した。双方が合意した和解条項には、下記がある[33][34]

PTAが入退会自由な任意団体であることを将来にわたって保護者に十分に周知すること。

保護者がそうと知らないまま入会させられたり退会を不当に妨げられたりしないようPTA側が努めること。

「和解」はあくまでも当事者間の合意であって、第三者に強制力を及ぼしうる「判例」とは明確に区別されるべきである。当該和解条項を自発的に取り入れることは自由であるが、当和解条項を根拠にした第三者からの団体への強制がなされてはならない。
個人情報保護法とPTA

2017年5月30日、改正個人情報保護法(2016年12月20日に閣議決定された)が全面施行された。改正法の施行により、PTAも個人情報保護法のルールに沿った個人情報の取扱いが求められることとなった[35]。2020年に、同法はさらに改正・施行されている。

PTAが個人情報を扱う際に守るべきポイントはいくつもあるが、代表的なものを次にあげる。個人情報の利用目的を明確にする。個人情報を取得する際は、利用目的を本人に知らせる。偽りその他不正な手段によって個人情報を取得してはならない。病歴等の要配慮個人情報を収集してはならない。個人情報を本人の同意を得ないで第三者に提供してはならない。個人情報を第三者に提供するときは、記録を厳密につける[36][37]


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