PRIDE_(格闘技イベント)
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PRIDE

設立1997年
主催KRS(1997年 - 1999年)
ドリームステージエンターテインメント(1999年 - 2007年)
ズッファ(2007年)
本部 日本
東京都港区
代表者

初代 石坂徳洲

2代目 森下直人

3代目 榊原信行

サイトprideofficial.com - ウェイバックマシン(2007年4月26日アーカイブ分)
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PRIDE(プライド)は、日本総合格闘技イベント1997年から1999年まではKRSが、1999年から2007年まではドリームステージエンターテインメントが開催していた。現在、PRIDE FC WORLDWIDE株式会社がブランド及び興行権を保有している。海外でのイベント名称はPride Fighting Championships(略称Pride FC)。

2000年代前半の総合格闘技においては名実ともに「世界最高峰の舞台」であり、日本における総合格闘技人気の火付け役となった。また、アメリカUFC日本K-1に並ぶ格闘技イベントに成長した。「PRIDE 武士道 -其の七-」での選手紹介

さいたまスーパーアリーナの15周年記念では「PRIDE GRANDPRIX 2005」が最多動員記録として表彰された[1]

2015年に旗揚げされた格闘技団体「RIZIN」の前身といわれることもある[2]
概要

PRIDEの主な開催イベントシリーズは、「PRIDE.」の後に通し番号が入る「PRIDEナンバーシリーズ」、数大会に分けたトーナメントによって優勝者を決定する「PRIDE GRANDPRIX」、実験的要素と日本対世界の対抗戦を軸にしてスタートし、途中から中・軽量級中心に特化した「PRIDE武士道」、大晦日に行われ、当日時間差放送ながらも、フジテレビ系列の地上波放送にて、ゴールデンタイムを含む長時間枠で放送された「PRIDE男祭り」の4つであった。

1997年の「PRIDE.1」より数か月に1回のペースで「PRIDEナンバーシリーズ」のみを開催していたが、2000年の1月と5月に体重無差別級による「PRIDE GRANDPRIX 2000」を開催。

その後はまた、数か月に1回ナンバーシリーズの興行に落ち着くが、2003年には再び、今度はミドル級選手による「PRIDE GRANDPRIX 2003」を8月、11月の2大会に分けて行う。この年にはアーケードゲームとして「PRIDE」と「PRIDE GRANDPRIX 2003」の2作品がカプコンからリリースされ、後にPlayStation 2用ゲームソフトとして移植もされた。また、この年の10月に「PRIDE武士道」も初開催される。

そして大晦日の「PRIDE男祭り」は、オリンピックの格闘競技での金メダリストや、他格闘競技のトップ選手などのPRIDEデビュー試合の場として、またはその年に各PRIDEイベントで活躍した選手が一度に集うオールスター大会として開催され、全試合終了後にはカウントダウンイベントも行われた。

2005年から始まったPRIDE武士道では、「中・軽量級」のみの試合を行う興行としてナンバーシリーズ、GPとの差別化が計られるようになったが、2006年11月5日のPRIDE 武士道 -其の十三-をもって同シリーズは終了し、それ以降のナンバーシリーズ、GPにおいて正式に中軽量級のウェルター級(83kg以下)、ライト級(73kg以下)が設置された。

その他の関連するイベント・大会としては、PRIDEへの登龍門を謳い二軍的位置付けだった「MMA THE BEST」シリーズ、東海テレビのテレビ番組「PRE-PRIDE」「PRIDE王」内企画の大会だった「PRE-PRIDE」シリーズ、興行的要素を一切排したアマチュア選手のための大会「PRIDEチャレンジ」がある。
歴史
前史

そもそもPRIDEは、高田延彦ヒクソン・グレイシーの試合を実現するためだけに立ち上げられたイベントであった。きっかけは東海テレビ事業時代の榊原信行がUWFインターナショナルの名古屋大会の運営に携わり、高田延彦と深夜まで飲み明かしたことだったという。その10日後に偶然、東海テレビ事業と取り引きのあるH2Oがヒクソンの写真集を制作する話があり、ヒクソンと榊原が会うことになっており、ここから対戦の計画が始まった[3][4]。当初の企画書で、K-1の石井和義館長の名前が総合プロデューサーに名前を連ねていたのも、榊原が東海テレビ事業時代にK-1名古屋大会の運営をしていたためである[5]
1997年7月22日、ホテルニューオータニ・シリウスの間で行われた記者会見で、10月11日に東京ドームで行われる格闘技イベント『PRIDE-1』のメインイベントで、『ヒクソン・グレイシー高田延彦』の一戦を行うと両者会見に出席のもと発表された。ヒクソン対高田は、勝者に賞金2000万円が贈られる「ザ・ワールド・マーシャルアーティスト選手権」と銘打たれた。会見の時点で「PRIDE-1」はヒクソン対高田以外は何も決まっておらず、会見当日は他の対戦カードだけでなく、前売り券の発売日や試合開始時刻も発表されなかった。当初8月15日開催の計画で一人歩きしながら、結局何の発表のないまま自然消滅しただけに、マスコミは一抹の不安が残ったが、会見から2日後に主催のKRSから「開場午後3時、試合開始・午後5時」と発表するとともに、「我々は他のプロレスや格闘技団体と比べても、運営組織としては何ら見劣りするとは思っていません」とFAXで宣言し、2か月後に迫った大会開催に自信を持っていることを改めて宣言した。
旗揚げ

1997年10月11日に第1回大会「PRIDE.1」が開催され、高田延彦 vs. ヒクソン・グレイシーの試合で注目を集める。前項で述べているが、当初は1回きりの開催予定であった。そのため「たった一つのプライド(誇り)」と言う意味を込めて「PRIDE.1」と命名された。しかし、「PRIDE.1」が好評であったため第2回開催が決定。大会名の意味を変えて1998年に「PRIDE.2」を横浜アリーナで開催した。その後はPRIDEの後に開催順に数字が続く「PRIDEナンバーシリーズ」を続々と開催した。

初期には、スタンディングバウトルール、空手ルール、組み技ルールなど夢の対戦カード実現の舞台として、色々なルールも試行されたが、その後は総合格闘技ルールに一本化。立ち技のK-1に対して、立ち技も寝技もありの総合格闘技として認知された。

「PRIDE.1」から「PRIDE.4」までは、実行委員会形式のKRS(格闘技レボリューション・スピリッツ)が母体となって運営。KRSは、名古屋の広告代理店(DSE前社長森下直人が在籍した名古屋の家電チェーン・エイデン子会社のハドック、パーフェクTV!-現スカパー!の広告代理店)、安室奈美恵関連の制作をしていた名古屋のイベント制作会社H2O、関西の大物プロモーター、のちにDSE社長となる榊原信行らが立ち上げたという[5][4]。イベントの制作はH2Oが行なっていた[6]

KRSのスーパーバイザーは、三井物産の契約プロデューサーとしてパーフェクTV!立ち上げに参加し、サムライTV(現・スカパー・ブロードキャスティング)のプロデューサーで小室哲哉のアドバイザーでもあった喜多村豊が務め、空手家の黒澤浩樹が代表幹事としてKRSの顔の役割を担った。喜多村はメディアファクトリーのプロデューサーでもあり、同社からPRIDEの公式ガイドブックと公式ビデオが発売されていた[7]
DSEの時代

1999年1月20日に株式会社ドリームステージエンターテインメント(DSE)が発足し、実行委員会組織での運営に限界があったKRSに代わり、「PRIDE.5」から運営を担当することになった。社長にはKRSで調整役として活躍した森下直人が就任。株の過半数を持つオーナー社長だったという。2000年8月27日の「PRIDE.10」で、アントニオ猪木エグゼクティブ・プロデューサーに、2003年1月8日に森下直人が死去した後任の社長に榊原信行常務取締役が、2003年4月には、高田延彦がPRIDE統括本部長に、それぞれ就任。


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