PMOSロジック
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PMOSロジックのクロックIC (1974年)

PMOS または pMOSロジック(Metal-Oxide-Semiconductor : 金属-酸化物-半導体が由来)は、pチャネルエンハンスメントモードMOSFETに基づいたデジタル回路のファミリである。1960年代後半から1970年代初頭において、NMOSロジックCMOSロジックに置き換えられるまでPMOSロジックは、大規模集積回路 (LSI)のための支配的な半導体技術であった。
歴史と応用「ディプリーション負荷NMOSロジック#歴史と背景」も参照

モハメド・アタラ(英語版)とダウォン・カーンは、1959年にベル研究所で最初に動作したMOSFETを製造した[1]。彼らは、PMOSデバイスとNMOSデバイスの両方を製造したが、PMOSだけが動作した[2]。製造工程における汚染物質(特にナトリウム)が実用的なNMOSデバイスを製造するために十分に管理されるようになるまで10年以上かかったからであった。

バイポーラトランジスタ(当時、集積回路で利用できる唯一のPMOS以外のデバイス)と比べて、MOSFETは多くの利点があった。

同精度の半導体デバイス製造技術を仮定すると、一つのMOSFETは一つのバイポーラトランジスタの面積の10%だけを必要とする[3](pp87)。その主な理由は、MOSFETが自己絶縁であり、同じチップ上の隣の部品と絶縁するためにpn接合分離(英語版)を必要としないからである。

MOSFETは、より少ない工程で作ることができた。それゆえにより単純により安く製造することができる(MOSFETは1回だけの拡散ドーピングだけで製造できた[3](pp87)が、バイポーラトランジスタは4回必要だった[3](pp50))。

MOSFETの場合、静止時に流れるゲート電流はないので、MOSFETで作られた集積回路の消費電力を低くすることができる。

バイポーラトランジスタを使った集積回路と比べて欠点もあった。

スイッチング速度はかなり遅かった。大きなゲート容量が原因である。

初期のMOSFETの高い閾値電圧は、最小電源電圧を高くすることになった(-24 Vから-28 V[4])。

ジェネラル・マイクロエレクトロニクス(英語版)は、1964年に最初の商用PMOS回路を導入した。120個のMOSFETでできた20ビットシフトレジスタであり、当時としては信じられないほどの集積度であった[5]。1965年にジェネラル・マイクロエレクトロニクスは、ビクター・コンプトメーター(ビクター・テクノロジー(英語版))という電子計算機のために23個のカスタム集積回路を開発したが[5]、当時のPMOS回路の信頼性からするとあまりにも野心的で結局のところジェネラル・マイクロエレクトロニクスは消滅することになった[6]。他の会社は、大きなシフトレジスタ(ジェネラル・インストゥルメント[7]、あるいはアナログマルチプレクサ3705(フェアチャイルドセミコンダクター[8]のようなPMOS回路を製造し続けた。それらは当時のバイポーラトランジスタでは実現不可能であった。

1968年にポリシリコン自己整合ゲート技術という大きな技術革新が登場した[9]。フェアチャイルドセミコンダクターのトム・クレインとフェデリコ・ファジンは、商業的に実用化できるように自己整合ゲートを改良した。その結果、最初のシリコンゲート回路としてアナログマルチプレクサ3708を市場に出すことになった[9]。自己整合ゲートプロセスは、製造時の許容誤差を小さくし、MOSFETをより小さくし、ゲート容量を縮小した。例えば、PMOSメモリにこの技術を適用すると、3倍から5倍の速度になり、チップに占める面積は半分になった[9]。ポリシリコンゲート材料は、自己整合ゲートを可能にしただけではなく、スレッシュホールド電圧を低下させた。その結果として最小電源電圧を低くすることになった(例えば、-16 V[10](p1-13))。消費電力を削減することにもなった。電源電圧が低くなったので、ポリシリコン自己整合ゲートPMOSロジックは、「低電圧PMOS」と呼ばれ、それと対照的に古いものは「高電圧PMOS」と呼ばれるようになった[3](pp89)。

様々な理由からフェアチャイルドセミコンダクターは、PMOSに関係する管理職が望むほど集中的にPMOS集積回路の開発を進めなかった[11](pp1302)。それら管理職の中の二人であるゴードン・ムーアロバート・ノイスは、1968年にその代わりとしてインテルを起業することを決めた。すぐに彼らは、フェアチャイルドの他の技術者と合流した。その中にフェデリコ・ファジンとレスリー・L・ヴァダス(英語版)もいた。1969年にインテルは、最初のPMOSロジックを使った容量256ビットのStatic Random Access Memory (SRAM)であるIntel 1101を発表した[11](pp1303)。それに続いて、1970年に1024ビットのDynamic Random Access Memory (DRAM)であるIntel 1103(英語版)を発表した[12]。1103は、商業的に成功し、コンピューターの磁気コアメモリを急速に置き換え始めた[12]。インテルは、1971年に最初のPMOSマイクロプロセッサであるIntel 4004を発表した。多くの企業がインテルの行動に続いた。ほとんどの初期のマイクロプロセッサは、PMOS技術で製造された(en:Microprocessor chronologyも参照)。インテルの40408008ナショナル・セミコンダクタIMP-16、PACE、そしてSC/MP。テキサス・インスツルメンツのTMS1000ロックウェル・インターナショナルのPPS-4[13]とPPS-8[14]がPMOSで製造された。これらのマイクロプロセッサの中にいくつかの商業的に最初のものが存在する。最初の4ビットマイクロプロセッサ (4004)、最初の8ビットマイクロプロセッサ (8008)、最初のシングルチップ16ビットマイクロプロセッサ (PACE)、そして最初のシングルチップ4ビットマイクロコントローラ (TMS1000。同じチップにCPU、RAM、そしてROMを統合)である[注釈 1]

1972年までにNMOS技術がついに商業製品に使用できる程度に開発が進んだ。インテル(Intel 2102)[15]とIBM[12]は、1Kビットメモリチップを発表した。NMOS MOSFETのn型チャネル内の電子移動度は、PMOS MOSFETのp型チャネル内の正孔移動度の約3倍なので、NMOSロジックはスイッチング速度の向上を可能とした。このような理由でNMOSロジックは、PMOSロジックを急速に置き換え始めた。1970年代後半までにNMOSマイクロプロセッサは、PMOSのマイクロプロセッサを追い抜いた[16]。PMOSは低コストかつ比較的高い集積度だったので、単純な電卓や時計のような用途のためにしばらく使われ続けた。CMOS技術は、PMOSあるいはNMOSの両方よりも劇的に低い消費電力を確実なものとした。CMOS回路はフランク・ワンラス[17]によって1963年にすでに提案されており、CMOS技術を使った商用の4000シリーズ 汎用ロジックICは、1968年に製造が始まっていたが、当時のCMOSは製造が複雑でPMOSやNMOSよりも集積度が低く、NMOSよりも速度が遅いという状況だった。1980年代までかかってCMOSは改良され、CMOSはマイクロプロセッサの主流の技術としてNMOSを置き換えることになった。
解説

PMOS回路は、NMOSロジックCMOSロジックと比較して多くの欠点を抱えていた。複数の異なる電源電圧(正電圧と負電圧の両方)が必要であり、導電状態における消費電力も高かった。全体的なスイッチング速度も遅かった。PMOSは、論理回路やその他のデジタル回路を実装するためにpチャネルMOSFETを使っている。PMOSトランジスタは、n型半導体の中に反転層を作ることによって動作する。pチャネルとも呼ばれるこの反転層は、p型半導体で作られたソース端子とドレイン端子の間に正孔を導電することができる。

pチャネルは、ゲートと呼ばれる第3の端子に負電圧(-25 Vが一般的だった[18])を印加することによって生じる。他のMOSFETのようにPMOSトランジスタは、4つの動作領域を持つ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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