ニューヨーク州バッファローで1947年から1951年まで自動車を製造していた「プレイボーイ自動車会社」に母親が勤めていたセラーズが、新しいタイトルに「プレイボーイ」(「遊び人」の意)はどうかと提案した。 すぐに2冊目を出す準備を開始し、いつ出るかわからなかったものの、2冊目は創刊号を超える売り上げを確保した。1954年に3号目を全米で発行するに当たり、共同編集者に作家のレイ・ラッセル。カメラマン主任に日系アメリカ人のヴィンス・タジリを採用するなど安定したチームを結成し、さらにヘフナーの家をオフィス代わりに使っていたものを、シカゴの専用のオフィスに移転した。 売り上げは3年目には100万部を突破し、これまでの男性誌ではなかった美しいピンナップや洒落たイラスト、プレイメイト(今月の女の子)や中折ピンナップなど、今では当たり前の様々なアイディアを投入した。 さらにダイナースクラブやメルセデス・ベンツ、男性用香水などの広告も掲載するなど、第二次世界大戦後の好景気を背景にした消費行動に支えられた。販売部数が好調なことから、シカゴの中心地にスタジオ付きの自社ビルを購入し、全米一の男性誌に上り詰めた。 1950年代後半から1970年代前半にかけて、洒落た紙面レイアウトに女性ピンナップ、そしてマーティン・ルーサー・キングやマルコムX、ジャン=ポール・サルトル、フィデル・カストロなど広範な層へのインタビューと並び、著名な作家の作品など、文化的意義を強く押し出した内容が特にベビーブーマー世代に対して大きな人気を博し、ジョン・F・ケネディ大統領も読んでいることを公言した。 しかし1963年6月に、シカゴ警察によりヘフナーがわいせつ図書の製作及び販売の容疑で逮捕されるが(罪状はジェーン・マンスフィールドのヌード)、11月より行われた裁判で表現の自由を訴え「無罪を勝ち取った」。 また1950年代から、ヘフナーが個人的にも支援していた公民権運動の支持や、1960年代にはベトナム戦争反対を表明、さらにベトナム戦争へのアメリカ軍の慰問や戦争孤児問題への協力を行った。また性の自由化や女性の権利、ピル使用の是非、核実験の反対、さらにはLSDやマリファナ使用の是非など、社会的な問題に対して様々な形で影響を与えた。 『プレイボーイ』で過去に最も売れたのはベトナム戦争中の1972年11月号で、716万1561冊を記録した。また、この号に含まれていたレナ・ショブロムのヌード写真は、その一部がスキャンされて画像圧縮アルゴリズムの評価用テスト・イメージとして標準的に使用されるようになった。この画像は同分野では単に「レナ」として知られている。 また1950年代後半には「プレイメイト」にシンボルであるウサギをイメージしたコスチューム・バニー・ガールの格好をさせウェイトレスに使い、アレサ・フランクリンやナット・キング・コールを生でを聴かせる会員制高級クラブ「プレイボーイ・クラブ」を、シカゴを皮切りにニューヨークやセントルイス、マイアミやロサンゼルスに、さらにカジノを設けた店舗をロンドンなどにオープンするなど、世界観を広げつつ事業の多角化を進めた。 テレビジョンや映画製作など新しいメディアへの進出、ホテル市場への進出もすすめた。
全米一の男性誌
最盛期「プレイボーイ・マンション」(シカゴ)
事業多角化プレイボーイ・エンタープライズDC-9-32型機プレイボーイクラブで働くウェートレス「プレイボーイ・バニー」が着用するバニーガールの衣装(2011年撮影)