PIERROT
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1999年

4月1日、メジャー・デビュー後、半年で初の日本武道館でのワンマンライブを行う[注 3]

7月7日、「クリア・スカイ」、「MAD SKY -鋼鉄の救世主-」、「ハルカ…/カナタヘ…」、「ラストレター」、4枚のシングル発表を経て、メジャー1stアルバム『FINALE』発売。

7月20日、初の野外ライブ「Dictators Circus IV【vier】」を富士急ハイランドコニファーフォレストで開催。

8月7日、富士急コニファーフォレストで開催された、SUMMER SONICの前身[5]ロック・フェスティバル「BEAUTIFUL MONSTERS TOUR」の1日目に出演[6]。このフェスティバルでの発言が波紋を呼んだ。詳細は「#エピソード」を参照

9月9日、「TOUR 1999 FORETELLER'S-ERROR FINAL」を横浜アリーナで敢行。

12月22日、シングル「-CREATURES-」を発表。同日、マルチメディア世界配信ライブ「THE GENOME CONTROL」を行う。この企画は当時としては画期的なインターネットによる映像配信ライヴであった。場所が明かされない謎の会場でPIERROTがライヴを行ない、その様子が全国各地の街頭ヴィジョンに映し出され、WOWOWで生中継され、インターネットを通じて世界中に配信された。その直後にキリトはモニター越しに1時間後に新宿西口の特設ステージでライヴを行なうと宣言し、ゲリラライヴを敢行した[7]


2000年

6月7日、シングル「AGITATOR」を発売。

7月23日西武ドームにて約3万人を動員したコンサート「Dictators Circus V」を敢行。PIERROTの初のドーム公演となった。これはメジャー・デビュー後628日というドーム公演としては当時の最短記録であった。このコンサートでは、観客席をセンターから左右AGITATORシートとFOLLOWERシートの真っ二つに分断した。

9月27日、シングル「神経がワレル暑い夜」を発売。インディーズ時代に配布されたのみの入手困難な楽曲となっていた「HAKEN KREUZ」がこのCDの3曲目に「*自主規制」というタイトルで再録されリリースされた事がファンの間で大きな話題となった。

11月22日、メジャー2枚目のアルバム『PRIVATE ENEMY』を発売。その前日11月21日から、PIERROT TOUR 2000?2001 『PUBLIC ENEMY』と題したツアーが開始する。


2001年

5月6日タワーレコード渋谷店限定1万枚で、シングル「PARADOX」をインディーズから発売。

8月29日ユニバーサルミュージック移籍後初のシングル「DRAMATIC NEO ANNIVERSARY」を発売。


2002年

4月24日、メジャー3枚目のアルバム『HEAVEN?THE CUSTOMIZED LANDSCAPE?』発売。5月8日5月9日5月10日の3日間連続でコンサート「【LANDSCAPE】」を日本武道館で開催した。

12月22日12月23日の2日間、初のさいたまスーパーアリーナでのコンサート、「Dictators Circus VI」を開催。


2003年

7月23日、メジャー4枚目のアルバム『ID ATTACK』発売。

12月17日、初のベスト・アルバム『DICTATORS CIRCUS -奇術的旋律-』発売。インディーズ時代の楽曲のみから選曲され、全て再録音された。


2004年

12月1日、メジャー5枚目のアルバム『FREEZE』発売。


2005年

バンドの活動を一部休止し、各メンバーは個人の活動を開始する。

4月6日にシングル表題曲からのベスト・アルバム『DICTATORS CIRCUS -A variant BUD-』、6月8日にはシングルC/W曲からのベスト・アルバム『DICTATORS CIRCUS -A deformed BUD-』が発売された。

5月3日5月4日、バンドの10周年を記念したコンサート「Dictators Circus VII」がさいたまスーパーアリーナにて2日間行われた。

7月6日、キリトがソロデビューシングル「DOOR」、8月3日にソロアルバム『Hameln』を発売。

11月27日から、ツアー『TEMPORARY DECISION』を開始。


2006年

3月23日、キリトの2枚目のソロシングル「TEAR」が発売。

4月2日日比谷野外音楽堂でファンクラブ限定ライブ「EMERGING」が雨の降る中、公演された。このライブが、解散までの事実上のラストライブとなった。

4月12日、公式ホームページ等で解散を表明。主な理由として、キリトは「ソロ活動を優先したいというメンバーと、あくまでPIERROTの活動を重視したいというメンバー間での意志の統一が出来なかった」と釈明した[8]

6月21日、解散発表により、PIERROTのラストシングルとして「HELLO」がリリースされた。以降、キリトはソロ活動、アイジはLM.C、潤はALvinoの活動を活発化させていった。

8月14日、キリト、KOHTA、TAKEOがAngeloの結成を発表。


2014年

4月9日、「PIERROT 2014.04.12 18:00 新宿アルタビジョン」とだけ記された特設サイトが突如開設されると共に、PIERROT公式Twitterアカウントも開設された[9]

4月12日、2014年10月にコンサート「DICTATORS CIRCUS FINAL」を開催する事を発表[10][11][12]

8月16日・8月17日、品川ステラボールにてフィルムギグ「PIERROT FILM GIG 2014 -Dictators’ history-」を開催[13][14][15]

10月24日・10月25日、さいたまスーパーアリーナでコンサート「DICTATORS CIRCUS FINAL」を開催し、PIERROTとして8年ぶりのライブを成功させた[16]。PIERROTの今後についてキリトは、「これから先のことは何も決まっていないし、何の約束はできないですが、PIERROTというバンドはここで終わりだということも言いません。」と述べた[3]

11月25日、「DICTATORS CIRCUS FINAL」の模様を収録したBlu-ray及びDVDDICTATORS CIRCUS FINAL 2014.10.24 - I SAID 「HELLO」- 2014.10.25 - BIRTHDAY ? at SAITAMA SUPER ARENA』を発売。


2015年

4月1日、「DICTATORS CIRCUS FINAL」の模様を収録した初のライブ・アルバム「DICTATORS CIRCUS FINAL」を発売。

10月31日 PIERROT公式サイトを閉鎖。


2016年

12月31日、 公式TwitterでオフィシャルFC「Arlequin」再始動を発表。


2017年

7月7日7月8日横浜アリーナで史上初となるDIR EN GREYとの対バンイベント「ANDROGYNOS」を開催。


バンド名

PIERROTの前身バンドDizy-Lizyに、 KOHTA、TAKEOが加入し、バンド名がピエロとなる。これは、「ポップな可愛らしさと裏に怖い部分がある」点がバンドの音楽性と共通していたという理由でのキリトによる命名である。ミニアルバム『CELLULOID』発表時にPIERROTとなり、シングル「Screen」発表時からPierrotとなった。メジャー1stアルバム『FINALE』リリース時より表記をPIERROTと大文字に戻した。
エピソード

1999年に「Arlequin(アルルクゥアン)」という名称のPIERROTのファンクラブが発足された。Arlequinとはフランス語で「ピエロ」という意で、ギターの潤が名付けた。その後、2004年に「FOLLOWERS」と改名され、解散後の2014年に新たに発足された期間限定ファンクラブ名は、再び「Arlequin」となっている。また、PIERROTのファンの総称としては「ピエラー」で定着している。これはかつて安室奈美恵のファッションを模倣した人達がアムラーと呼ばれた現象やハマダーと呼ばれた浜田雅功の様な現象から引用されている。コアなファンの間では、「ラー」のみでピエラーと認識する。更に、メンバー別ファンの通称は、キリトファンをキリターないし兄寄りムラター、アイジファンをアイジャー、潤ファンをジャー、KOHTAファンをコーターないし弟寄りムラター、TAKEOファンをタカーという様に呼称が複雑化している。


富士急ハイランドコニファーフォレストで開催された外国のバンド中心のロック・フェスティバル「BEAUTIFUL MONSTERS TOUR」に出演した際、キリトがMCで


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