PC-9800シリーズ
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両者は合意することができなかった[15]

渡邊が提案する計画の先行きが不透明になったため、浜田はオフィスコンピュータの小型版を開発するか、渡邊の提案通りにパソコンを開発するか、2つの計画で迷っていた。浜田と渡邊はPC-8001やPC-8801のアプリケーションを収集して調査しているうちに、消費者市場はこれらのパソコンと互換性のある16ビット機を望んでいることに気付いた。浜田は異なる市場向けに両方の計画を採用することにした。1982年(昭和57年)4月、オフィスコンピュータの小型版はNEC独自開発の16ビットマイクロプロセッサμCOM-1600を搭載したNEC システム20 モデル15としてリリースされた。この機種は従来のオフィスコンピュータの新モデルとして発表され、特段注目されることはなかった[15]

1982年(昭和57年)2月、ソフトウェア開発チームはN88-BASICのリバースエンジニアリングとN88-BASIC(86)の設計を開始した。その作業は翌月に完了し、開発チームはPC-9801(コードネームはN10プロジェクト)の開発を開始した。PC-9801のプロトタイプは1982年(昭和57年)7月の終わりに完成した。N88-BASIC(86)のコードは新規に書かれていたが、西はバイトコードがマイクロソフトのものと一致すると指摘した。当時、バイトコードに著作権法を適用できるかどうかは不明確だった。西は浜田に対して、NECはBASICのライセンス料に相当するマイクロソフト製品を購入し、N88-BASIC(86)にはマイクロソフトとNECの双方の名前を著作権表示に入れることを要求した。浜田はこれを受け入れた[15]

開発チームはサードパーティーの開発者が市場の拡大に非常に重要と考え、発売前から独立系ソフトハウスに50台から100台のプロトタイプと技術情報を無償で提供した[15]

三菱電機はNECに先行して1982年(昭和57年)1月に16ビットパソコンのMULTI 16を発売したが、その実体は豊富なソフトウェアを自社で揃えてシステムとして売り込むというオフィスコンピュータの性格を残しており、成功しなかった[15][19]

1981年(昭和56年)に情報処理グループの端末機事業部も「パーソナルターミナル」としてN5200というパソコンシリーズを発売した。これは8086プロセッサとμPD7220ディスプレイコントローラを搭載しており、アーキテクチャも'PC-9800シリーズと類似していたが、オペレーティングシステムは独自開発のPTOSを採用している。NECはN5200をインテリジェント端末あるいはワークステーションとして発表し、市販パソコンのPC-9800シリーズとはターゲットが異なっていた[2]。この複合端末機市場に対して富士通は1981年にFACOM 9450を発売し、日本IBMは1983年にマルチステーション5550を発売した。
PC-9801の登場とシェア拡大詳細は「PC-9801シリーズ」を参照PC-9801Fのマザーボード

1982年(昭和57年)10月、PC-9800シリーズ(以下、PC-98)の初代機『PC-9801』は16ビットCPUのNEC μPD8086(Intel 8086互換)を5MHzで駆動し、128KBのRAM(最大640KBまで拡張可能)を搭載、PC-8000シリーズやPC-8800シリーズとのハードウェア・ソフトウェアの上位互換性と298,000円という低価格を売り物にして発売された[20]。グラフィック画面解像度は640ドット×400ドット8色。また、当時としては先進的なグラフィック描画機能を持つ自社製のGDC(Graphic Display Controller μPD7220)を2個搭載している。ディスプレイなどPC-8800シリーズの周辺装置はPC-9801にそのまま流用でき、N88-BASIC用に開発されたソフトウェアは少しの修正でPC-9801に対応させることができた。これにより、従来のPC-8000シリーズやPC-8800シリーズのビジネスユーザーを取り込むことに成功した。一方、新規ユーザーは高価な8インチFDD(Floppy Disk Drives)を別途購入する必要があり、ディスプレイプリンターも合わせると、システムセット価格としては100万円近くになった。また、基本構成では数字と英文字、半角片仮名しか表示できなかったため、日本語ワープロソフトなどを使用するには別売の漢字ROMボードPC-9801-01を増設する必要があった[21]

ビジネス分野を中心に漢字ROMやFDDを標準搭載したPC-9801を要望する声があったことに加え、高品質な漢字フォントで印刷できるプリンターが求められた[15]。当初、PC-9801にはOEMで調達されたPC-8800シリーズ用のプリンターや自社開発のNK-3618が用意されたが、どちらも16ドットフォントに相当するゴシック体で印字するものであった。書類や本での使用頻度が高い明朝体となると、24ドットフォントを印字できる24ピンプリンターが求められた。NECはNK-3618の開発を契機に、プリンターを開発した「端末装置事業部」を「プリンタ事業部」に改め、1983年(昭和58年)5月に24ドットフォントが収録された漢字ROMを搭載する24ピンプリンター『PC-PR201』を発売した。これは当時50万円台であった24ピンプリンターを30万円以下という低価格で発売したことで好評を得た[20]

1983年(昭和58年)10月発売のPC-9801Fは、CPUに5MHzと8MHzから選択駆動が可能な8086-2を搭載し、2台の5インチ2DD (640KB) FDDとJIS第一水準漢字ROMを標準装備して398,000円 (2ドライブ機) で発売された。この機種は価格性能比が良好で、企業や技術者に好評を博した[20]。5インチ2DDフォーマットは本機から新たにサポートされた。当時、5インチ2HD (1MB) FDDはまだ信頼性が低く、8インチ2D (1MB) FDDは高価だったため、日本語の業務用アプリケーションに必要最小限の容量である5インチ2DD (640KB) が採用される運びとなった[22]

PC-9801Fと同時に、電子デバイスグループが開発したPC-100も発表された。こちらはワープロや表計算ソフトを同梱(バンドル)し、同年に発売されたApple Lisaのようなコンセプトを持っていた。PC-100はマウスや縦横切り替え利用が可能なディスプレイといった先進的な機能を備えて注目を集めたが、従来機のソフトウェアや周辺機器と互換性がなく、ビットマップ処理によるグラフィックを採用したことで文字の表示速度が遅くなったことが影響して売れなかった。さらに、PC-100のマーケティングは情報処理グループのPC-9800と競合したことでパソコン販売店を混乱させることになった。1983年(昭和58年)12月、大内はパソコン事業を8ビット家庭用パソコンを扱う日本電気ホームエレクトロニクス(1983年(昭和58年)6月に新日本電気から社名変更)と、16ビットパソコンを扱う日本電気の情報処理グループの、2つの部門に統合することを決めた。


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