PC-9800シリーズ
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PC-9800シリーズ
初代PC-9801と8インチフロッピーディスクドライブ PC-9881
種別パーソナルコンピューター
発売日1982年10月 (41年前) (1982-10) (PC-9801)
販売終了日2003年9月30日 20年前 (2003-09-30)[1]
出荷台数1830万台[2]
OSCP/M-86, MS-DOS, OS/2, Windows
CPU8086 5MHz (PC-9801)
メモリRAM 128KB (PC-9801)
前世代ハードPC-8800シリーズ
次世代ハードPC98-NXシリーズ
代表的な起動音

PC-9800シリーズは、日本電気(以下NEC[3])が1982年昭和57年)から2003年平成15年)9月30日の受注終了まで、日本市場向けに販売[注 1]した独自アーキテクチャパーソナルコンピュータ(パソコン)の製品群である。同社の代表的な製品であり、98(キューハチ/キュッパチ)、PC-98、NEC98など略称されることもある[5]
概要

NECが1982年(昭和57年)10月に発売した16ビットパソコン「PC-9801」を初代機とするパソコン製品群である。従来NECが発売した8ビットパソコンPC-8000シリーズPC-8800シリーズの資産を継承し、高速化のために16ビットマイクロプロセッサを採用した。初代「PC-9801」は、社団法人情報処理学会2008年度(第1回)「情報処理技術遺産」に認定され[6][7]、2016年(平成28年)9月6日に国立科学博物館重要科学技術史資料[注 2]第00221号として、日本で最も普及した16ビットパソコンであることを評価され、登録された[8][9]

各社専用にカスタマイズされたマイクロソフトMicrosoft BASICをベースにした時代の終盤から、MS-DOS時代を経てMicrosoft Windowsの普及期まで約15年間[注 3]、NECのパソコンの主力商品として製造販売が続けられた。全盛期の1987年(昭和62年)に、日本国内の16ビットパソコン小売店頭販売数で市場の90%を占有[10][11]する。

PC-9800シリーズは多種多様な機種が展開された。1985年(昭和60年)からワープロCAD用途を意識して性能を高めたPC-98XAなどの高級機種を発売し、1990年(平成2年)に32ビット外部バス(NESAバス)を搭載するHyper98(PC-H98シリーズ)へ派生した。東芝J-3100シリーズセイコーエプソンEPSON PCシリーズと小型パソコンの開発を競い、1989年(平成元年)に「ノートパソコン」の名称を広めた98NOTE (PC-9801N) を発売[12]する。1990年代に費用対効果で優れるPC/AT互換機の台頭により、従来路線を踏襲するPC-9800シリーズの本流は製品計画を見直す。1993年(平成5年)に、従来のPC-9801型番の機種は、おもにWindowsの利用を想定した高性能機の98MATE(PC-9821シリーズ)と、おもにMS-DOSの利用を想定して低価格を追求した98FELLOW(PC-9801シリーズ)に一新する。

以後PC-9800シリーズは、ハードウェアに業界標準規格を組み込んでPC/AT互換機と類似点が多くなるが、既存の周辺機器やソフトウェアと互換性を維持するため独自のハードウェア仕様も備えた。1995年(平成7年)にWindows 95が登場してパソコンが一般市場で普及すると、PC-9800シリーズの独自アーキテクチャは利点よりも費用面の不利が拡大する[13]。1997年(平成9年)にNECは、PC/AT互換機をベースとするPC98-NXシリーズを発表して主力を移行し、2003年(平成15年)9月30日にPC-9800シリーズの受注を終了した。
歴史
16ビットパソコンの開発へ

NECは通信機器メーカーとして創業したが、事業は日本電信電話公社に大きく依存していた。民需や輸出を拡大するため、1950年代にコンピュータや半導体の開発を始め、1976年に日本IBM富士通日立製作所に次ぐ、日本で4番目に高いメインフレームの売上高を記録した[14]

NECは消費者市場での存在感がなく、その子会社として家電製品を展開していた新日本電気も消費者市場で成功しているとは言い難かった。メインフレームやミニコンピュータを開発してきたNECの情報処理グループは、マイクロプロセッサを性能や信頼性が劣っているためコンピュータに適していないと見なしており、興味を示さなかった。しかし、電子デバイス販売事業部マイクロコンピュータ販売部がマイクロプロセッサ評価用キットのTK-80を発売すると、ターゲットに想定していなかった一般のコンピュータマニアや好事家に売れていった。TK-80の開発者、後藤富雄は1977年(昭和52年)にサンフランシスコで開催されたウェストコースト・コンピュータ・フェアでパソコン市場の立ち上がりを目の当たりにした。後藤とその部長、渡邊和也はパソコンを開発することを決意した。電子デバイス販売事業部には電子部品店の小さな販売網しかなかったため、新日本電気が持つ家電ルートを使ってパソコンを販売することにした[15][16]

NECの電子デバイス販売事業部は1979年(昭和54年)にPC-8001を発売し、1981年(昭和56年)には日本のパソコン市場の40%のシェアを獲得した[17]。当時のNEC副社長、大内淳義は次のように述べた[18]。「たしかにパソコンの育ての親として、電子デバイス部門の貢献は否定できぬ事実である。しかし、パソコンがコンピュータであるのならば、日本電気内ではこれまでどおり情報処理部門が扱うべきであるということになろう。またパソコンが家電であるならば、家電を扱う新日本電気の申し出も拒否することはできない。」

1981年(昭和56年)4月、NECはパソコンの開発を新日本電気とNECの情報処理グループ、電子デバイスグループ、の3つのグループに展開することを決定した。新日本電気は8ビットパソコンPC-6000シリーズを、情報処理グループは16ビットのビジネス向けパソコンを、電子デバイスグループはPC-8000シリーズPC-8800シリーズなどその他の分野のパソコンを担当することになった[18]
N10プロジェクト

情報処理小型システム事業部では、浜田俊三がプロジェクトの指揮を執り、小澤昇が製品計画を担当した。当初、開発チームは新しいパソコンを1973年(昭和48年)のNEAC システム100に由来するオフィスコンピュータの小型版として計画としていた。渡邊和也は、新しいパソコンはMicrosoft BASICを備え、以前のパソコン向けの周辺機器との互換性を維持し、拡張スロットの仕様を公開しなければならないと助言した。1981年9月、浜田は元請けのアスキー西和彦N88-BASIC8086プロセッサ用に書き直すよう依頼した。西は米国の開発会社所属のビル・ゲイツと相談したいと返答した。3か月後、マイクロソフトはGW-BASIC(英語版)の開発に忙しいとして、西は浜田の申し入れを断った。西は「マイクロソフトはBASICをより構造化された内部コードで同じ機能を持つものに書き直しており、それは16ビットバージョンのGW-BASICとして発売される。日本語版のGW-BASICを選択した場合、我々はBASICをより早く提供できるだろう。」と述べた。浜田は「以前述べたとおり、旧来のものと互換性があるBASICが欲しい。」と返答した。両者は合意することができなかった[15]

渡邊が提案する計画の先行きが不透明になったため、浜田はオフィスコンピュータの小型版を開発するか、渡邊の提案通りにパソコンを開発するか、2つの計画で迷っていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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