9月8日 - グランキューブ大阪・東京国際フォーラムにおいて平沢進+会人(EJIN)によるライブ「HYBRID PHONON 2566」( - 9月17日、全3公演)が開催された。2014年の「HYBRID PHONON」以来9年ぶりとなるスタイルであり、前回の平沢進・核P-MODELに合わせて、P?MODELの曲も演奏された。 時期によって激しく変遷しているため、大きく6つに分けて記述する。初期(1979年 - 1981年頃)
音楽性
MANDRAKE後期のパンク、ニューウェーブ的手法を発展させた、リズムボックスやシンセサイザーをラジカルに使ったサウンドで、ヒカシュー、プラスチックスと共に「テクノ御三家」と俗称され、日本のテクノポップ/ニューウェーブ・ムーブメントの一翼を担った[注 12]。平沢によるとメンバーが影響を受けたバンドは、999
ポップで明るいビジュアルとは裏腹に、楽曲のテーマがSF小説「1984年」を題材としたダークなディストピアがコンセプトとなっている。
基本的に平沢・田中が作詞作曲を務めていたが、1st『IN A MODEL ROOM』には平沢の実兄である平沢裕一が作詞に参加し、『LANDSALE』には秋山が楽曲を提供している。また、裕一は凍結までアルバムジャケットやライブフライヤーのデザイン、ライブでの映像演出を担当していた。
デビュー直後の急激な人気にメンバーは困惑し、ライブハウスには黄色い歓声が飛び交い、町中には「ピンクは血の色」と車に書かれた暴走族が現れるなど、マンドレイク時代から比べ、「機材をピンクに塗っただけでこのザマかと」などとシニカルな態度を取っていた[13]。1980年に入ると、演奏中に突然ヤマトノリを絞り出す、ライブイベント出演時には2ndアルバム『LANDSALE』を流すだけで観客が騒然とするまで演奏を始めないなど、デビュー当時のようなパフォーマンスから離れ始める[13]。
中期(1982年頃 - 1985年頃)
過熱するテクノポップブームへの危機感から攻撃的、批評的な歌詞やテクノ的な音作りを捨て、奥行きを持たせた音の空間や、独自のリズム解釈、そして意味と音のバランスを作為的に崩した言葉の組み立てによる歌詞など実験的なアプローチへとバンドは大幅な路線変更を打ち出した。1981年の『Perspective』発売前に新宿ロフトにて行われた2部制シリーズライブ「カナリアの籠展開図ぐるりと回る360度期待は記憶気のどくだねオゾノコブラノスキー」では、第一部に前作を踏襲する未発表曲を数曲演奏。田井中が唯一作曲した表題曲や「LUCKY TIME」などが演奏されたが、P-MODELの音源として発売されることは無かった[注 13]
田中はこの時期を「次にどういうふうにやっていくか、模索してた時代」「(楽曲制作において)僕としては非常に閉塞状況を感じてて、ちょっと続けにくかった」と回顧しており、平沢は当時の田中について「(Perspective製作時に)自信が無かったというか、スランプだったかもしれません」と語る[13]。その後、「アイデアの枯渇」を理由に1983年に田中が脱退。以降はメンバー、音楽性の変遷を繰り返し、その中で他バンドの経験者やローディーだった者がメンバーとして採用されるにつれて、次第に平沢のワンマン・バンドとしての要素が強くなっていく。後に平沢はこのことが活動休止の遠因であったと述べている[39]。
田中の脱退やレコード会社との対立で平沢は徐々に精神が不安定となっていく。シルバ・マインド・コントロール(以下SMC)のレクチャーを受けたことがきっかけとなり、SMCの方法論を取り入れた『ANOTHER GAME』、ユング心理学を参考にした『SCUBA』といった作品が発表され[13]、「夢」「無意識」を題材としたシュルレアリスム的世界観がコンセプトとなっていく。
ライブでは「ヘヴナイザー」などの自作楽器を用いてフレーズ・サンプリングの多用、ドラムサウンドのホワイトノイズ加工が行われた。また、ステージ上から客席に鳥の餌を撒くなどのパフォーマンスで個性的なステージングを展開した。この頃から平沢は現在でも続く直立不動で演奏を行うようになる。
1984年の横川加入後は、平沢曰く「黄金期の感覚を取り戻そうと」殺気立ったパフォーマンスを展開。P-MODEL史上最もファンキーとも称されたが、バンド内の衝突も激しく平沢は「(横川と)傍から見ると険悪に見える事もあるくらいにやりあってた」と語り、後年平沢は横川がバンドから来るストレスで脱退したことを明かしている[13]。