P-MODEL
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即日P-MODELが結成され、シングル『美術館で会った人だろ (ART MANIA)』で同年7月にメジャーデビュー[2][3]ジョージ・オーウェルの小説『1984年』をコンセプトの下敷きとした1stアルバム『IN A MODEL ROOM』を発表[4]

プラスチックスヒカシューと共に「テクノ御三家」とされ、YMOを始めとする80年代テクノポップブームの一翼を担い、テクノニューウェイブシーンにおける中心的存在となる[5]。メジャーデビュー後にはXTCヴァン・ヘイレンなど海外バンドの来日ツアーの前座を務め、日本武道館公演なども経験した[6]

1981年に発売された3rdアルバム『Potpourri』で「脱・テクノ」を宣言。以降はメンバーや音楽性が激しく変遷を重ねた末、1988年12月に「凍結」(活動休止)を宣言[7]

1991年、期間限定の活動という前提でP-MODELの「解凍」を宣言し、同年9月に日比谷野外音楽堂にて行われたライブイベント『ERROR OF UNIVERSE』にて活動再開。再びテクノポップを全面に打ち出した。時代が進み、デジタルシンセによる音圧の高いサイバー感のあるサウンドに変化を遂げた。また、Amigaを中心とするマルチメディアの活用を行った。

1993年、メンバーチェンジに伴う「改訂」作業に入る事を発表。同年10月に日比谷野外音楽堂にて行われたライブイベント「ERROR OF INFORMATION 待機」を以て、一時的に活動「待機」(活動休止)となる[8]

1994年12月、メンバーの「改訂」を終え再び活動を再開。当時黎明期だったインターネットをキーワードとして様々な活動を行い、その中の一環として楽曲のMP3配信を行った。この事はメジャー出身バンドとして日本国内で初めての試みであった[9]

2000年12月にP-MODELの解体を発表し、「培養」期間に入ることを宣言[10]

アメリカ最大の音楽レビューサイト「Rate Your Music」ではテクノ・ニュー・ウェイブバンドとして海外の音楽リスナーから強い支持を得ている[11]
核P-MODEL

2004年からは、中心メンバーだった平沢がP-MODELの作風を継承したプロジェクト「核P-MODEL」として不定期に活動している[12][注 1]

なお、当初は平沢のソロバンドとして始まったが、2ndアルバム『гипноза』にはP-MODELのオリジナルメンバーだった田中靖美、平沢がプロデュースを手掛けたバンドPEVOよりPEVO1号が参加している。

ライブにおいても2014年からはサポートミュージシャンを加えており、2014年に行われたライブ「パラレル・コザック」と「HYBRID PHONON」にはサポートメンバーとしてPEVO1号が参加した。その他、「パラレル・コザック」には福間創扮する「謎の毛糸帽の男」がスポット出演している。

2018年から2019年に行われたライブ「回=回」では、正体不明のメンバー「会人(EJIN)」がサポートメンバーとして参加している。
メンバー

個人記事のあるメンバーについてはそちらを参照。

氏名パート生年月日・出身地在籍期間他の所属グループ
現メンバー(P-MODEL / 核P-MODEL)
平沢 進
(ひらさわ すすむ)ボーカル
ギター
シンセサイザー (1954-04-01) 1954年4月1日(70歳)
東京都足立区1979年1月 -
不幸のプロジェクト
元メンバー(P-MODEL)
秋山 勝彦
(あきやま かつひこ)ベース
キーボード
シンセサイザー (1959-04-11) 1959年4月11日(65歳)
東京都1979年1月 - 1980年11月
1991年9月 - 1993年10月CROSS
秋山×藤掛Duo
田中 靖美
(たなか やすみ)キーボード
シンセサイザー (1953-12-05) 1953年12月5日(70歳)
東京都東久留米市1979年1月 - 1983年3月
備考

MANDRAKE時代からのメンバー。平沢が「片腕」と称したほどの存在で、在籍中は平沢と共に楽曲制作のほとんどを担当していた。

脱退後は音楽業界から引退。現在は横浜にて雑貨店「OUIJA」を経営しているが、OUIJAの店内BGMや宣伝用ムービーのBGMを制作するなど音楽そのものから離れたわけではない。

2013年、核P-MODELのアルバム『Gipnoza』の一部楽曲にキーボードで参加。脱退以来30年ぶりに平沢と共演した。

田井中 貞利
(たいなか さだとし)ドラムス (1953-10-29) 1953年10月29日(70歳)
福岡県築上郡1979年1月 - 1984年12月
1987年3月 - 1988年12月
備考

田中と同じくMANDRAKE時代からのメンバー。

ドラマーとしては勢いに乗せて突っ走るパワー型で、秋山からは「田井中のドラムにはお母さんに怒られてる時のような効果がある」と評されていた。

P-MODEL凍結後、1990年に行われた平沢ソロライブ「Error Force」出演を最後に音楽業界を引退。21世紀に入ってからは平沢や元メンバーとの連絡も余りとっておらず、近況が不明となっている。

改訂期においては彼をモデルとしたバーチャル・ドラマー『TAINACO』が導入された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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