P-51
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P-51 マスタング

飛行するP-51D-5-NA 44-13357号機
(第361戦闘航空隊所属、撮影年不詳)

用途:護衛戦闘機戦闘爆撃機対地攻撃機

分類:戦闘機

設計者:エドガー・シュミュード

製造者:ノースアメリカン・アビエーション

運用者


アメリカ合衆国

アメリカ陸軍航空軍

 アメリカ空軍


 イギリス空軍 など


初飛行:1940年10月26日(NA-73X試作機)[1]

生産数:16,766機

運用開始:


1942年1月(イギリス空軍)

1942年8月(アメリカ陸軍航空軍)


退役


1957年(アメリカ空軍)

1984年ドミニカ共和国空軍


運用状況:退役

ユニットコスト:50,985米ドル1945年

派生型:


A-36 アパッチ

PA-48 エンフォーサー

P-82 ツインマスタング

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P-51 マスタング(North American P-51 Mustang)は、アメリカ合衆国ノースアメリカン社が開発しアメリカ陸軍航空軍などで運用されたレシプロ単発単座戦闘機である。

第二次世界大戦では同世代機を圧倒する速力に加え、充分な運動性と積載量を有しつつ戦闘機としては長い航続距離や安定した高高度性能により、爆撃機の護衛や対地攻撃で活躍した。アメリカ海軍が採用したF8Fベアキャット戦闘機と並び、最強のレシプロ戦闘機・第二次大戦中の最優秀戦闘機と評される[2]

愛称の「マスタング(Mustang)」とは、スペイン人によって北アメリカ大陸に持ち込まれ野生化した小型の馬のことである。日本語ではムスタングと表記する場合もあるが、本項ではより発音の近いマスタングに統一する。
目次

1 概要

2 開発

3 タイプ

3.1 初期型

3.2 B型およびC型

3.3 D型およびK型

3.4 H型


4 評価

4.1 機体

4.2 速度性能

4.3 航続力・高高度性能

4.4 火力

4.5 防御力

4.6 運動性

4.7 実戦

4.8 日本


5 戦後

5.1 F-51

5.2 他国での運用


6 民間

6.1 キャヴァリア製マスタング

6.2 レプリカ


7 各タイプと生産機数

7.1 FJ-1 フューリー


8 諸元

9 現存する機体

10 登場作品

11 参考文献

12 脚注

12.1 出典


13 関連項目

14 外部リンク

概要

形状は機首にV型エンジンを搭載した単発、主翼は低翼配置、尾翼は⊥型という当時の戦闘機で主流の設計である。翼型やラジエーターの配置に工夫が施されたが、初期型は凡庸な性能に加え、諸事情により短期間の設計であったため複数の問題も抱えていた。第二次世界大戦の半ばにイギリスロールス・ロイスが開発したマーリンエンジンを搭載した後は性能が大幅に向上、それまで主力だったカーチス製のP-40 ウォーホークの後継機として導入が進んだ。実戦では航続力と高高度性能を生かしボマーエスコート(爆撃機の護衛)の主力として活躍した。また実戦配備後もパイロットの意見を取り入れた改良により完成度が高まっていった。

マスタングは様々な局面に対応できたことから最強の万能戦闘機[3]、史上最高のレシプロ戦闘機とも評され、アメリカ軍でも第二次世界大戦中に使用した機体で最高と評価している[4]。ただしマスタングが投入された時点で航続距離、高高度性能、加速性、運動性、火力のいずれにおいても同等もしくは上回る機体は存在していた。また最高速度はレシプロ機では最高クラスであったが、既に世界初のジェット戦闘機であるメッサーシュミット Me262が実用化されており『同世代機で最強』とされる性能はない。しかしマスタングはこれらを一定水準で満たしながらより低コストであり、なおかつアメリカ軍が必要とした時期に登場したことが『最優秀』と云われる所以である[5]

航空業界では後発だったノースアメリカンは、練習機としてアメリカ陸軍航空隊のほか数カ国に採用されたNA-16の開発により、単発機の開発能力は証明されていたものの、戦闘機の自社設計は初めてであった。P-51の成功により躍進し、第二次世界大戦後もアメリカ軍に練習機や戦闘機を多数納品した。
開発

1939年に第二次大戦が勃発してすぐに、イギリス及びフランス政府は共同でニューヨークマンハッタンに、サー・ヘンリー・セルフを長とする英仏購入委員会(Anglo-French Purchasing Commission)を設立した。この委員会はドイツによるフランス占領後はイギリス単独の機関となった。セルフが抱えていた多くの仕事のなかには、イギリス空軍のためにアメリカの戦闘機製造を組織化することも含まれていた。この時点では、完成しているアメリカ製航空機には、ヨーロッパの水準に達しているものは皆無だった。P-40は要求に近かったが、工場は最大限稼働していたにもかかわらず供給は不足していた。1940年2月25日、セルフはノースアメリカンの社長である"ダッチ"・キンデルバーガーに「カーチスからライセンス供与を受けてP-40を作れないか」と尋ねた。ノースアメリカンは既にイギリス向けの練習機ハーバード Iを生産しており、その品質はイギリス空軍でも高く評価されていた。3月のある日の午後、キンデルバーガーは主任設計士のエドガー・シュミュード[注 1]に相談した。シュミュードはかねてから戦闘機設計の構想を抱いていたため、戦闘機の自社開発は出来ると答えた。キンデルバーガーのヘンリーへの回答は、「ノースアメリカン社は、同じエンジンで、もっといい航空機を、より短い製作期間で、初飛行させることができる」というものだった。委員会ではP-40に採用されている12.7 mm機関銃を4丁、ユニットコストは40000ドル以下という条件を設定[6]、5月29日にはノースアメリカンとイギリス空軍の間に契約が交わされた。
タイプ
初期型

提案は受け入れられ、1940年3月からNA-73開発計画が開始された。設計は以下の特徴を備えていた。

層流翼型(
層流の範囲を大きくすることを意図した翼型
NACAが設計した翼型を採用。失速特性(急激な運動時の気流の剥がれ方)が悪いので、ドッグファイトが避けられない戦闘機にはあまり用いられない。翼が厚くなることによる抗力の増大をおさえ、降着装置機関銃弾薬燃料を収納するのに充分なスペースを確保し、翼下に武装や増槽を搭載できる強度も確保できた。

ラジエーター
メレディス効果(英語版)を利用する事で空気抵抗を推力に変換[注 2]するラジエーター・ダクトを採用[7][8]。ダクトを機体から約7cm離し、前方へ突き出す形で設置することで機体に沿った乱流を避けて効率化を図った[9]


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