P-47
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P-47 サンダーボルト

飛行するXP-47N-RE 42-27387号機

用途:迎撃戦闘機戦闘爆撃機

分類:陸上戦闘機

設計者:アレキサンダー・カートヴェリ(英語版)

製造者:リパブリック・エイヴィエーション

運用者


アメリカ合衆国

アメリカ陸軍航空軍

 アメリカ空軍 ほか



初飛行:1941年5月6日

生産数:15,660機

運用開始:1943年4月

退役:1949年(アメリカ空軍)

運用状況:退役
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P-47 サンダーボルト(Republic P-47 Thunderbolt )はアメリカリパブリック社が開発し、アメリカ陸軍航空軍などで運用されたレシプロ単発戦闘機である。

愛称の「サンダーボルト(Thunderbolt)」は、 雷(いかづち・かみなり、特に聴覚的な感覚の面でのかみなり)のこと。
目次

1 概要

2 P-43 から XP-47B まで

3 XP-47B

4 P-47B / P-47C

4.1 XP-47Bの不具合

4.2 P-47B発注される

4.3 P-47C(B型の不具合是正)

4.4 B型の派生型


5 P-47Dと派生型

5.1 P-47D-1 ? D-11

5.2 P-47D-15

5.3 P-47D-16 ? D-23

5.4 P-47G

5.5 P-47D-25 ? D-30

5.6 P-47D-40


6 D型以降の派生型

6.1 XP-47H

6.2 XP-47J

6.3 P-47M

6.4 P-47N


7 XP-72

8 実戦配備

8.1 ヨーロッパ戦線

8.2 欧州戦線以外での活躍


9 諸元

10 戦後

11 年表

12 現存する機体

13 登場作品

13.1 漫画・アニメ

13.2 ゲーム


14 脚注

15 参考文献

16 関連項目

17 外部リンク

概要

第二次世界大戦末期に、ノースアメリカンP-51マスタングと並んでアメリカ陸軍航空軍 (USAAF)およびその後身のアメリカ空軍 (USAF) の主力戦闘機として活躍した。Jug(ジャグ)の愛称でも知られた。戦闘機としての空戦能力も優れていたが、その圧倒的な馬力と兵装搭載量によって特に戦闘爆撃機として大いに活躍し、アメリカ以外の連合国空軍でも使用された。
P-43 から XP-47B まで詳細は「P-35 (航空機)」および「P-43 (航空機)」を参照

1939年6月、セバスキー エアクラフト カンパニーリパブリック エイヴィエーション カンパニーへと社名を変更した。それまでセバスキーは、耳目にたる業績を上げていなかったが、この状況はまもなく変わることになる。

飛行中のエンジン火災によってターボチャージャー搭載の技術実証機AP-4は失われたが、この機体を気に入った米陸軍航空隊 (USAAC) は1939年5月にYP-43の制式名称で13機を発注した。しかし、USAACの要求を満たすには多くの改修が必要となり、YP-43の外見はAP-4とはずいぶん違ったものとなった。YP-43はプラット・アンド・ホイットニーR-1830 ツインワスプを搭載した。これは空冷星形14気筒、ターボチャージャー付きのピストンエンジンで、出力は約1,200馬力だった。プロペラブレードは3枚。武装は機首に12.7 mm 機関銃が2丁 + 左右の主翼に7.62 mm 機関銃が1丁ずつ。コクピットのレイアウトは一新されたが、これは後に「レイザーバック」と呼ばれるようになる。

1940年9月から1941年4月にかけて、13機のYP-43が引き渡された。この間リパブリックは、YP-43により強力なエンジン(1,400馬力のP&W R-2180)を積んだXP-44 ロケットと、AP-10の開発に取り組んでいた。P-43の後継となるXP-44は39年10月に80機が発注された。AP-10は軽量戦闘機として設計され、アリソン製 V-1710 液冷エンジンを搭載し、2丁の12.7 mm機関銃を装備した。陸軍はこの計画を支援し、XP-47の制式名称を与えた。リパブリックにとっては幸先のいいスタートだった。

だがヨーロッパの戦争がエスカレートし始めた1940年のまでには、XP-44とXP-47ではドイツの戦闘機にかなわないことが明らかになってきた。リパブリックはXP-47をわずかに改良したXP-47Aを提示したが、USAACには物足りないものだった。P-43を設計した主任技師、アレキサンダー・カルトベリは製図板に戻り、一見するとYP-43を大きくして改悪したようにも見える機体案をもちかえった。新たな設計は1940年6月にUSAACに提示され、9月にXP-47Bの名称でプロトタイプが発注された。一方、新設計とほとんど共通点のないXP-47Aの開発は中止された。

USAACは、XP-47Bの設計をにわかには信じられなかったと思われる。カルトベリはこう言ったらしい、「こいつは恐竜になるだろう。スタイルのいい恐竜にね」 XP-47Bの自重は約4,500 kgだったが、これはYP-43より65 %も重かった。新型機はP&W R-2800 ダブルワスプを動力とした。空冷星形18気筒(9気筒×2列)で、出力は約2,000馬力にも達した。胴体内に収納したターボチャージャーへはどっしりしたダクトが伸びていた。両翼内に4丁ずつ、計8丁のブローニング 12.7 mm 機関銃は、当時としては異常なほどの大火力だった。

XP-47BこそUSAACが待ち望んだ機体だと言えた。そこでXP-47Aと同様XP-44の開発も中止されたが、新型機の生産開始まではすこし間があいてしまう。リパブリックの生産ラインを維持するために、航空隊はP-43を54機発注した。XP-47B開発計画には遅れが生じ、USAACはエンジンを若干改良したP-43Aをさらに80機発注した。さらなる遅れによってP-43A-1が125機発注された。A-1は中華民国へのレンドリースを意図したもので、12.7 mm 機関銃を4丁と自動防漏燃料タンクを備えていた。

1942年3月の最終号機までに、13機のYP-43Aを含めて全部で272機のP-43が引き渡された。こうした機体が最終的にどうなったかはハッキリしていない。少なくとも51機が中華民国に渡り、何機かはクレア・リー・シェンノートフライング・タイガースで運用された。しかし、ターボチャージャーと自動防漏タンクの信頼性が低かったため、使用された数はそう多くない。残りの機体はほとんどが写真偵察機に改造され、そのうちのごく少数はオーストラリアへ渡った。これらの機体は、1942年のにそれまでのP-43B・P-43C・P-43Dといった名称からRP-43へと改称され前線へでの航空偵察に使用された(Rはreconnaissance「偵察」の意味)。

戦闘機としても偵察機としても、P-43はほとんど戦闘に出会わなかった。P-43が果たした真に重要な役割は、よりよい機体への踏み石となったことと、XP-47Bを供給できるようになるまでの間、生産ラインを動かし続けたことくらいのものである。
XP-47B

XP-47Bは1941年5月6日にローリー・P・ブラバムの操縦で初飛行を行った。コクピットにすこし煙が発生するなど多少の問題はあったものの、この機体は素晴らしいということが判明した(煙はエンジンオイルが少しリークしたせいだった)。

XP-47Bは、巨大なダブルワスプとそのターボチャージャーを取り囲むように作られていた。AP-4をエンジンのオーバーヒートで失ったカートゥヴェリーは隙間のないカウリングをあきらめ、馬の首当てのような楕円形に開いた、幅広のカウリングでエンジンを覆った。このカウリングによってエンジン・左右のオイルクーラー・インタークーラーシステムの冷却が可能になった。

エンジンの排気はコクピットの両脇下方を通る2本のパイプによって後部へ導かれ、ターボチャージャーのタービンを駆動する。


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