P-2_(航空機)
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同年10月にP2V-7要員の第一陣が渡米し訓練を受けたのち、翌1956年(昭和31年)3月にP2V-7を受領、アラメダ(英語版)?バーバースポイント(英語版)?クェゼリン?グアム?日本のコースでフェリーを行い、3月7日に羽田空港に到着した。この機体が海上自衛隊にとって事実上初の実用対潜哨戒機となった。当時岩国基地に所在していた駐日米海軍哨戒航空隊の使用機でさえP2V-5を使用しており、そのため米海軍のVP搭乗員が見学に来たというエピソードが残されている。海自はP2V-7の愛称として、『おおわし』と名づけた。P2V-7の16機のフェリーは6次にわたって行われ、最終号機は1958年(昭和33年)8月に日本に到着している。1957年(昭和32年)には米軍の供与(現地調達)と言う形式で、川崎航空機(現川崎重工業航空宇宙システムカンパニー)でのライセンス生産が決定し、1965年(昭和40年)まで48機がノックダウン生産及びライセンス生産され[1]、供与機と合わせ計64機を取得した。

以後、固定翼対潜部隊(VP)の主力として、同時期に米軍からMAP(軍事無償援助)により供与されたグラマンS2F-1等と共に哨戒の任務についた。本機の登場によって海自はようやく近代的ASW作戦を展開しうる能力を獲得できたが、対潜機材の陳腐化とともに逐次第一線を離れ、1980年(昭和55年)2月に引退した。海上自衛隊はP2V-7の後継として、1966年(昭和41年)にP2V-7 4637号機を改造してP-2Jの開発を行い、P-2J試作第1号機(4701号機)として各種試験を行い量産型P-2Jの母体となった。P-2Jは、主エンジンをGET64ターボプロップエンジンに、補助エンジンをIHIJ3エンジンに換装して1969年(昭和44年)から量産が開始され、1979年(昭和54年)までに83機[注 1]が製造され[2]1994年平成6年)まで運用された。
配備部隊

第1航空群:第1航空隊(鹿屋航空基地)

第2航空群:第2航空隊・第4航空隊(八戸航空基地

第4航空群:第3航空隊(下総航空基地

第51航空隊(下総航空基地)

鹿屋教育航空群:第203教育航空隊(鹿屋航空基地)

事故

年月日所 属機番号 事故内容
1962.2.6第2航空隊 4621
青森県八戸沖で対潜訓練中に墜落。10名殉職
1962.9.3第1航空隊4628鹿児島県名瀬市(奄美大島)の急患への輸血用血液を空輸中、奄美実業高校のマツに左翼が接触。付近の住宅地に墜落した。12名殉職。民間人死亡1名、重軽傷12名、全焼31棟[3]
1965.6.1第3航空隊4657下総基地で離着陸訓練中に着陸装置を出さずに着陸し炎上。
1965.7.17第51航空隊4614銚子沖で新型照明弾を横壁の窓もしくはソナー用の穴から投下する試験中、同弾が発火して出火して墜落。11名殉職。機体はアメリカから供与を受けたもの[4][5]
1971.7.16 第3航空隊4651下総基地に着陸のため進入中、立木と接触。着陸復行後、浜松に向けて飛行中に銚子沖で消息不明。11名殉職。
1972.7.26第203教育航空隊4650台風退避の下総から鹿屋基地に帰投中、鹿屋から東約6マイルの高隈山に激突。7名殉職。
1973.4.27第3航空隊4662硫黄島に着陸のため進入中に同島の東方約4海里で消息不明。8名殉職。
1975.6.20第4航空隊4664八戸基地に帰投のため、鹿屋を離陸後右エンジンが故障し、鹿屋飛行場に緊急着陸すべく進入中に不時着、炎上。

機体後継機であるP-3との比較

中型クラスのレシプロエンジン双発プロペラ機であったが、補助推進機関としてターボジェットエンジン2基を搭載している。機内には対潜機器が並べられ、ノーズからコックピットの足元までガラス張りで、優良な視界が確保されている。

機首側に重量が偏っているためパイロットが降下率の変化に対応しきれず、滑走路手前の草地に接触する事故が度々発生しているが、強度の高い降着装置と高圧タイヤにより故障は少なかった[6]
スペックP-2H 三面図

(P-2H)


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