Nupedia
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1999年の秋ごろから、ウェールズはボランティアで作るインターネット上の百科事典について考え出した[10]

後にヌーペディアの編集主幹となるラリー・サンガーは、大学の博士課程に在籍していた[12]。その一方で、当時高まっていた2000年問題への関心や不安に応えるために、2000年問題に関するニュースを整理して報告するサイトを運営していた[13]。しかし2000年になっても不安視されていたような大きな問題は起こらなかったため、サンガーはすべきことを失い、新たに取り組むことを模索し出す[2]

2000年明けのすぐにサンガーは登録していたメーリングリストのグループに、新たに立ち上げるブログのプロジェクトに参加を呼び掛けるメールを送った[2]。サンガーは哲学を専攻しており、ウェールズも客観主義とよばれる哲学に興味を持ち造詣が深かった[14]。ウェールズもサンガーが送ったメールのグループに含まれていた[2]。メールを受け取ったウェールズはサンガーに、自身が持っていたインターネット百科事典のアイデアを説明し、そのリーダーになってくれないかと逆に提案する[15]。「ジミーから返信があったときはびっくりした。彼は、プロジェクトを率いる哲学者を探していたようだ」[16]と、サンガーは回想している。

ウェールズの提案を承諾したサンガーは、2000年2月にサンディエゴへ移住し、ボミスで働きだした[15]。仕事を開始したサンガーは、ウェールズと協議しながら、新しいインターネット百科事典の運営方針や執筆者の確保に勤む[17]。翌月の3月9日、ヌーペディアのサイトが公式に立ち上げられる[3][15]。翌日の10日には『PC World』のサイト上でヌーペディア立ち上げが宣伝されて、執筆者の募集もなされた[18]

「サイト管理者はあらゆる分野において専門知識を持つ寄稿者と編集者を探しています。寄稿者には多様な記事を提供してもらいます。記事は一般の人にも企業にも無料で公開されます。誰でもヌーペディアの記事を読むことができますし、他のウェブサイトにヌーペディアの記事を載せることすら可能です。そのときは、単にヌーペディアを出典としてクレジットすればいいだけです。」

?Liane Gouthro, “Building the World’s Biggest Encyclopedia,” PC World (March 10, 2000)([19]より)

2000年3月11日、ウェールズは初期のヌーペディアのメーリングリストに、自分の思いを説明する次のようなメッセージを送っている[20]

「いつの日か、世界中で、この百科事典が印刷費用程度で学校で利用されるようになるのが私の夢です。それには、普及したインターネットを利用できる余裕がまだまだ無いであろう、第三世界と呼ばれる国々も含まれます。何人のアフリカの村人がブリタニカ百科事典一式を持つ余裕があるでしょうか? 多くはないだろうと私は思います。」

?Jimmy Wales, “Hi...,” nupedia-l, March 11, 2000 ([21]より)

ウェールズもサンガーも、GNUのような自由な配布・改変を許すライセンスでヌーペディアの記事を公開するつもりではいたが、記事の編集については、既存の百科事典同様に専門家による管理と査読が行われる厳格なプロセスを踏んで行うつもりでいた[22]。2000年3月のサンガーの報告によると、参加者の25 - 40%(または35 - 56%)が博士号持ちで、その他も何らかの専門家であったという[18]。公開までの過程には、後述のように7つの段階が定められ、これを終えた記事のみが公開された[23]。この厳格で手間をかけた編集過程のため、1つの記事を公開されるのに数週間を要する結果となった[23]。そして、2000年9月、ヌーペディアとしての記事が初めて完成、公開される。記事は音楽の「atonality(無調)」、ヨハネス・グーテンベルク大学の音楽学者クリストフ・フストが作成したものであった[24]。編集方針ガイドラインも整備され、2000年11月までにヌーペディア編集方針ガイドライン3.31版まで作成された[18]
ウィキの導入とウィキペディアの立ち上げまでヌーペディアのトップページ
(2000年8月15日)

サイトは立ち上げられ、最初の記事は完成したが、ヌーペディアの厳しい参加資格の条件と厳格で複雑な編集プロセスにより、執筆者の数も記事の数も伸び悩むことになる[25][26]。ウェールズ自身も「ロバート・マートン」と「オプション価格決定理論」の記事を書き、投稿しようとした[27]。しかし書き始めると、自分の書いた記事が2名の金融経済学者から査読を受けることを思い出し、憂鬱な気分になった[27]。「学界を何年も離れていたので、それは怖かった。宿題のように感じた。」[28]と振り返っている。この出来事によってウェールズもヌーペディアで記事を書くことが楽しくないことを理解する[25]。結局、最初の年で完成した記事は12個のみであった[29]。2000年の終わりには、このような状態を打開するために、ウェールズとサンガーは解決策を話し合い、模索するようになる[25]

その後、この状況を解決する1つの策として、ウィキを導入したプロジェクト、すなわちウィキペディアが開始される。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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