その後もウィキペディアは成長を遂げていくが、ヌーペディアは自然休眠状態に陥る。2001年以降に作られたヌーペディアの記事は2つのみであった[38]。ウィキペディアの急成長はウェールズとサンガーを驚かせ、ウィキペディアがしっかり機能していくことを2人は理解すると、全面的にウィキペディアの運営に力を入れていくことになる[37][38][10]。
サンガーによれば、閉鎖するまでの2002年または2003年ごろ、ヌーペディアを十分に支援できなくなってきたボミスの代わりに、大学などの組織に買い取ってもらい運営してもらうことや、サンガー自身が買い取ることをウェールズに提案したが、結局実現しなかった[39]。また、ウィキペディアの完成・承認された記事をヌーペディアに収めていく案も議論された[40]。これについてはウェールズも積極的だったが、結局実現しなかった[40]。
2003年9月にヌーペディアのサーバーがクラッシュする[4]。オフライン状態になったヌーペディアはそのまま復旧されることなく、その歴史を閉じた[4]。ヌーペディアの記事の総数は、サンガーによれば2001年初冬までに査読プロセスを通過して完成した記事はおよそ25項目ほどで、下書き中の記事が150項目以上という状態であった[41]。少ないながらも存在していた記事はウィキペディアの方へ吸収された[42]。その後の歴史については、後身となったウィキペディアの歴史などを参照のこと。
ヌーペディアが上手く機能できなかったことの反省点として、サンガーは、複雑なシステムでも指示さえ明確にしていれば我慢強く利用してくれると思い込んでいたことを挙げている[26]。ウェールズは、2007年のインタビューでヌーペディアが失敗した理由を尋ねられて、「なぜ失敗したかというと、参加するのが難しかった、そして面白くなかったのが理由だと思います 」[43]と振り返っている。 ヌーペディアの記事の利用許諾ライセンスは、GNUのライセンスを基にしたヌーペディア・オープン・コンテント・ライセンス(Nupedia Open Content License)が作られ、採用されていた[44]。このライセンスでは、ウィキペディアのように記事作成者ではなく、サイトに出資するボミスが著作権者となっていた[45]。ただし、途中からGNUフリー・ドキュメンテーション・ライセンス(GNU Free Documentation License)に移行している[44]。サイトのソフトウェアはNupeCodeという共同作業用のソフトウェアで動いていた[46]。閲覧は無料で、広告を掲載することで収益を確保する予定だった[2]。 記事の執筆や査読はボランティアによって行われた[44]。ラリー・サンガーが編集主幹の役職を務め、彼のみがボミスに雇われる形で有給でヌーペディアの編集に携わっていた[47]。博士号取得者、大学の教授、その他実績のある専門家を対象に参加者を募っていた[22][48]。記事が公開されるまでに厳格な7段階の工程を経る必要がある。記事の作成から公開までのプロセスは次のようになっている[49]。 執筆の方針やガイドラインを備えており、ウィキペディアの中核方針の1つである「中立的な観点」の原形も、この中にすでに存在していた[50]。記事の難度は、予備知識の無い大学生が読んで理解できる程度のレベルを目標としていた[51]。 完成した記事の一覧を投稿順で以下に示す。ヌーペディアが閉鎖する直前の2003年8月8日付のインターネットアーカイブより[1]。 投稿順記事参考日本語名
仕組みと編集方針
割り当て
リード・レビュアーの選定
リード・レビュー
オープン・レビュー
リード・コピー・リーディング
オープン・コピー・リーディング
最終承認とマークアップ
完成した記事
1Atonality (brief version)無調(ショート版)
2Hydatius (brief version)ヒュダティウス(ショート版)
3The Donegal Fiddle Tradition (brief version)ドニゴール・フィドル音楽の様式(ショート版)
4Irish Traditional Music (brief version)アイリッシュ伝統音楽(ショート版)
5Atonality (longer version)無調(ロング版)