Navy_SEALs
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

2022年2月4日にはこの訓練中に死亡者が発生[6][7]また、入院する参加者も出たため、後に訓練内容の調査が行われた[8]。地獄週間を見事に突破した者は、少しの休息が与えられた後に水路学を4週間かけて学ぶ。
第2段階
潜水訓練課程 (8週間)潜水技術や水中工作技術の向上を図る。この8週間で水中工作の基礎を教え込まれる。主に、開放式潜水器(圧縮空気を使用)や閉鎖式潜水器(100%の酸素使用)の訓練を受け、水中からの潜入のためスクーバダイビング術を学ぶ。なお、酸素濃度100%の気体を使用する場合、酸素中毒の関係から5メートル程しか潜水できない為、上陸作戦等の一部の作戦でしか使用できない。
第3段階
地上戦訓練課程 (9週間)この段階に入ると、主に地上での戦闘訓練を行う。銃器爆発物の取扱、精密射撃、長距離偵察ロッククライミング航法、隠密潜入および離脱、小部隊戦術などが訓練される。この訓練の合間もほぼぎりぎりの制限時間が与えられた長距離走や長距離水泳が行われる。この訓練の最後の3週間半は、カリフォルニア州サン・クレメンテ島で、今まで教わってきたことを活かし、広範囲な演習を行う。

訓練の間、担当教官らによる審議会(段階審査会と専門審査会)が行われ、能力不足のものに失格が言い渡される場合もある。また、残留が決定したとしても、1つ後のクラスに再履修生として廻される事もある。この一連の訓練が終了すればBUD/Sを卒業したと看做され、卒業式が行われるが、SEALの訓練はまだ続けられる。
最終訓練
空挺降下訓練 (3週間)
BUD/Sが終了した後も、SEAL入隊のための訓練が続けられる。SEAL候補生は、元SEAL隊員が運営する民間訓練施設(かつては長年
ジョージア州ベニング基地の陸軍空挺学校で行われていた)空挺降下訓練に励む。訓練コースは3週間続き、第1週間は地上訓練で、降下と着地の基本技術を学ぶ。2週間目は高さ10.4mの塔からの降下着地訓練や、ブランコ式の着地訓練を装置を使っての訓練が行われる。3週目になると兵士たちはだんだん難易度を上げながら、夜間1回を含む5回のパラシュート降下を行う。無事に降下を終えた者たちは「空挺降下資格者」となる。
SEAL資格訓練 (SQT)(15週間)
この訓練を受けるため、海軍特殊戦センターに戻り、15週間の訓練を行う。通信技術や舟艇操縦技術、近接戦闘狙撃空挺降下などを訓練する。この訓練の意味は、SEAL候補生を実際にSEALsとしての作戦に従事できる水準までに引き上げる事である。このSQTに合格すれば、海軍特殊戦章「三又鉾」を授与され、SEAL海軍下士官兵適性区分(NEC)コードを与えられる。
基礎寒冷地海洋訓練 (3週間)
SQTの後、最初の作戦部隊の配属される前の3週間は、アラスカ州コディアック島で寒中訓練を受ける。

その後は、SEALs隊員として作戦に従事するが、常時行われる実行訓練プログラムでは、外国語や30週間の衛生コースなどの技能を学ぶ。ここまでおよそ2年6か月かかるといわれている。
主な参加作戦ヘリコプターより降下するNavy SEALsの隊員

1962年、キューバミサイル危機 初代チーム2指揮官ロイ・ボーム海軍大尉によるキューバ偵察任務。

1965年、ドミニカ共和国内戦に参加。

1964年?1973年、 ベトナム戦争 メコン川流域における偵察任務。ベトコン北ベトナム軍の要人暗殺・誘拐、捕虜救出作戦に従事。後にPRU(地方偵察隊)アドバイザーとして北ベトナム軍・ベトコンの体制を突き崩したフェニックス作戦に参加。

1983年、レバノン内戦でチーム4が駐留する。チャック・ファーラーの著作によると日中のベイルートでのパトロール任務の他、フランスによるシリア空爆の作戦で被撃墜パイロット救出に備えてシリアに潜入していた。

1983年10月、グレナダ侵攻[9] チーム6(現DEVGRU)がスクーン総督救出作戦と通信破壊作戦に参加する。その前に行われた飛行場へ発信機を取り付ける作戦は暴風雨の中の強行のため、パラシュート着水したチーム6の隊員中4名が溺死して失敗に終わる。通信基地破壊を果たしたキム・アースキン大尉12名は本部との通信が途絶え、グレナダ・キューバ軍の追撃に遭いながらも海へ飛び込んで逃げ切って全員生還する。スクーン総督邸へヘリコプターで到着したウェリントン・レナード大尉の小隊はグレナダ・キューバ軍に包囲されるも24時間にわたる攻防でスクーン総督とその家族を守りきり、自身の部隊も全員生還する。

1985年10月、豪華客船アキレ・ラウロ号シージャック事件[10] 旅客機で逃亡した犯人グループを追跡した先のシチリアでイタリアの警察部隊と指揮権を巡って口論、犯人強襲には至らなかった。

1987年、ペルシャ湾を航行する民間及び軍事船舶の安全確保のための作戦プライムチャンス作戦に第160特殊作戦航空連隊と共に参加。

1989年12月、パナマ侵攻 マヌエル・ノリエガ将軍追討作戦。チーム2の指揮官、ノーム・カーリー中佐と護衛隊員1人が運河河口にボートを乗りつけ、4名の隊員が潜水してノリエガ所有船舶のエンジンに爆薬を仕掛けた。設置後45分に船は大破する。チーム4の4小隊(推定48名)がパティーヤ飛行場のノリエガ所有航空機の破壊を実行する。事前までの計画立案不足と、敵側の情報が錯綜した中で実行される。格納庫付近でパナマ軍に待ち伏せされ、4名が死亡、8名が負傷する。航空機破壊は成功するものの、この時の指揮官は後年まで批判を受けることになる。チーム4でパナマ駐留経験があったマイケル・ウォルシュ少佐は、隊員の安全を考え航空機のタイヤを遠距離から狙撃する作戦を主張したが指揮官と対立し、実行前に作戦から外された。詳細は「ニフティ・パッケージ作戦」を参照

1991年、湾岸戦争 イラク軍陽動作戦、被撃墜友軍パイロットの救出作戦など。

1993年、ソマリア紛争でチーム6の4名がモガディシュの戦闘に参加。

1998年ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において、紛争地域の治安維持活動に従事。

1998年、リベリアの首都・モンロビアの米国大使館で発生した銃撃戦で、大使館内に立て篭もった米国人を救出する作戦シャドウ・エクスプレス作戦に参加。

2001年11月、アフガニスタンにおける不朽の自由作戦に参加。

2002年3月、アフガニスタンにおけるアナコンダ作戦に参加する。陸軍のデルタフォースと共にタスクフォース11を結成し、ターリバーン政権打倒とアルカーイダ撲滅作戦に従事。CH-47ヘリより転落し、ターリバーンに射殺されたDEVGRUのニール・ロバーツ一曹の遺体を巡って、SEALs隊員や第75レンジャー連隊隊員らが激戦を繰り広げる。

2003年?2011年、「イラクの自由作戦」に参加。

2004年、イラクでの「ファルージャの戦闘」に参加。

2005年6月、アフガニスタンの北東部山岳地帯で決行されたレッド・ウィング作戦でチーム10隊員がターリバーン拠点に潜入する。ターリバーンの主要メンバーの偵察作戦だったが、4名のSEALs隊員が150名前後(諸説あり)のターリバーン勢の攻撃を受け、マイケル・マーフィ大尉他2名が戦死、マーカス・ラトレル一等兵曹が唯一人生還する。救出に向かったCH-47ヘリもターリバーン勢に撃墜され、チーム10指揮官含む8人のSEALs隊員と8人の第160特殊作戦航空連隊隊員が死亡する、Navy SEALs創設以来最悪の出来事となった。

2005年12月、米陸海空軍特殊部隊の混成部隊によるサッダーム・フセインの捜索・捕縛作戦であるレッド・ドーン作戦(英語版)に参加。

2015?2021年、「確固たる支援任務」「自由の番人作戦」。

2011年5月、パキスタンアボッターバードの豪邸に潜伏中だった国際テロ組織、アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディン容疑者の殺害作戦に参加。チーム6の隊員ら25名を乗せた4機のステルスヘリコプター[11] で容疑者を急襲、約40分の銃撃戦の末、邸宅を制圧した[12]。その際同容疑者とその20歳の息子ら計5名を射殺した。同容疑者は武器を携行していなかったが、「抵抗した」ため射殺されたとされる[13]。詳細は「ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害」を参照

2011年8月5日夜、アフガニスタンで米軍のCH47チヌークが撃墜され、22人のSEALs隊員が死亡した。これはターリバーンが仕掛けた罠によるものであった。ターリバーンのカリ・タヒル司令官が、ターリバーンの会合があるとの偽情報を米軍に流し、米軍部隊を現地におびき出した。ターリバーンは現地までの唯一の飛行ルート上にある谷の両側の山に陣取り、誘き出されたヘリをロケット弾や現代兵器で攻撃して撃墜した。これにより、米軍兵士30人を含む38人が死亡し、このうち22人がSEALs隊員(うち15人がDEVGRU所属[14])で3人が空軍特殊部隊員であった。カルザイ政権は5月のウサマ・ビンラディン殺害に対する報復とみている[15]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:106 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef