NKディナモ・ザグレブ
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GNKディナモ・ザグレブ

原語表記Gra?anski nogometni klub Dinamo Zagreb
愛称Modri (青)
Purgeri (市民)
クラブカラー青
創設年1945年
所属リーグスーペルスポルトHNL
所属ディビジョン1部
ホームタウンザグレブ
ホームスタジアム
スタディオン・マクシミール
収容人数24,851
代表者 ミルコ・バリシッチ
監督 セルゲイ・ヤキロヴィッチ
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーアウェイカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

グラジャンスキ・ノゴメトニ・クルブ・ディナモ・ザグレブ(クロアチア語: Gra?anski nogometni klub Dinamo Zagreb)は、クロアチアザグレブを本拠地とするサッカークラブである。
概要

ユーゴスラビア時代からクロアチアを代表する強豪クラブのひとつであり、ユーゴスラビアリーグでは4回の優勝をしていた。1992年にユーゴスラビアからクロアチアが分離し独立してからはクロアチアリーグの名門チームとなった。

第二次世界大戦後、ユーゴスラビア共産党の指導によってそれまでザグレブに存在したHA?Kザグレブ(1903年創設)やH?Kグラジャンスキ・ザグレブ(1911年創設)といったクラブは解散させられ、1945年6月9日にディナモが創設された。創設当初の選手は主に元HA?K、グラジャンスキの選手から構成されていた。

連邦国家時代にはレッドスター・ベオグラードパルチザン・ベオグラードなどの連邦の中心であるセルビアに本拠を置く強豪の対抗馬として、同じくクロアチアに本拠を置いたHNKハイドゥク・スプリトなどとともにクロアチア国民に支持された強豪であった[1]

クロアチアの独立後は初代大統領フラニョ・トゥジマンによって税制の優遇を受け、ライバルであるハイドゥクを大きく経済面で上回る国内での一強状態を築き上げた[2]。クラブ名は1991年にHA?Kグラジャンスキ、1992年にクロアチア・ザグレブ(発音はクロアツィアに近い)へと改名された。一連の改名はトゥジマンの意向が働いたものであったとされるが、サポーター達はこれらの新しいクラブ名を拒絶した。そしてトゥジマンの死後、クラブは2001年に再度ディナモ・ザグレブに改名された。

トゥジマンの影響力が消えるとともに税制の優遇は排除され、以前の様な経済力は無くなったが[3]、近年はクロアチア国内から獲得した若手有望選手を育てて売ることで多額の収益を挙げている。2000年代後半だけでもFWエドゥアルド・ダ・シルヴァ(移籍金750万ポンド、アーセナル[4])、DFヴェドラン・チョルルカ(移籍金800万ポンド、マンチェスター・シティ[5])、FWイヴィツァ・オリッチ(移籍金500万ユーロ、PFC CSKAモスクワへ)、MFルカ・モドリッチ(移籍金1650万ポンド、トッテナム[6])、DFデヤン・ロヴレン(移籍金1000万ユーロ、リヨン[7])、MFマリオ・マンジュキッチ(移籍金800万ユーロ、ヴォルフスブルク[8])などの放出で収益をあげている。

日本人の獲得に熱心であり、過去には佐藤寿人家長昭博に接触している他、三浦知良を獲得したこともある[9]

サポーターはディナモヴァツ(クロアチア語: Dinamovac)と、ウルトラスはバッド・ブルー・ボーイズ(クロアチア語: Bad Blue Boys)と呼ばれる。BBBと略されるこのウルトラスはクロアチア紛争のきっかけとも言われる1990年のマクシミール暴動を始めとして度々騒ぎを起こし、悪名を広めている[10]。2010年にはリーグ優勝したにも関わらずクラブに不満を持ったサポーターが暴動を起こすという異例の事態も起こった[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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