NHL
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この論争の目玉となったのは、トロント・ブルーシャツのオーナー、エディー・リビングストン(エドワード・J・リビングストン)であった。彼は同じNHAのオーナー仲間から、「不公平な有利さをもたらすと思われるリーグ規則を作るよう働きかけ、その抜け穴を利己的に利用するよう誘導している」と常々非難されていた。

ブルーシャツが有力選手を引き抜かれたため、リビングストンは自己がトロントに所有していた2チーム (オンタリオズとブルーシャツ) を合併させたが、特にこのことが他チームのオーナーの怒りの火に油を注ぐこととなった。また、リビングストンは他チームの選手に「試合に出ないこと」を条件とする契約を提示したり、モントリオール・ワンダラーズがブルーシャツの有力2選手の引き抜きにかかったときにはワンダラーズをリーグから追放するキャンペーンを張った。

このような他のオーナーとのいざこざの中で、リビングストンは繰り返しアメリカで、既存リーグと対抗するリーグを始めるとの威嚇を行った。

1916年 - 1917年のシーズンにおいては、NHAは次の6チームから構成されていた。

NHA構成チーム

モントリオール・カナディアンズ (Montreal Canadiens)

モントリオール・ワンダラーズ (Montreal Wanderers)

オタワ・セネターズ (Ottawa Senators)

ケベック・ブルドッグス (Quebec Bulldogs)

トロント・ブルーシャツ (Toronto Blueshirts)

トロント駐留陸軍第228歩兵大隊 (an army team from the Toronto-based 228th Battalion)

1917年2月10日、当時最も人気が高かった陸軍第228歩兵大隊が、第一次世界大戦により召集を受けた。翌日の2月11日に、残る5チームのオーナー達は、リーグの将来について検討するためモントリオールに会同した。リビングストンは病のため参加できなかったが、他のオーナー達が彼とブルーシャツをNHAから事実上追放する道を選んだことを知ると驚きを隠せなかった。

リビングストンはNHA会長を辞しフランク・ロビンソンと連携関係を結んでから、自らリーグの会合には出席せず弁護士に利権を代弁させるようになった。1917年9月29日に招集されたオーナー会議では、他のオーナー達は5日以内にブルーシャツを売却するようリビングストンに迫った。

このためリビングストンは、トロント・アリーナ・ガーデンズがブルーシャツの日常業務を執行するという、実質的にはNHAを存続させるためにはリビングストンの権限を復活させる旨の条件を提示して交渉に臨んだ。これに呼応する形でNHAの他のオーナー達は、1917年11月26日モントリオールのウインザーホテルにて会同し、既存のカナディアンズ、ワンダラーズ、セネターズ及びブルドッグスに新たにトロント・アリーナズを加えた各チームを創立メンバーとして、ナショナルホッケーリーグ(NHL)を誕生させた。

NHL発足時の構成チーム

モントリオール・カナディアンズ

トロント・アリーナズ

オタワ・セネターズ

モントリオール・ワンダラーズ

ケベック・ブルドッグス

1918年のリーグ発足年度において、NHLはブルドッグスの一時的なチーム閉鎖などに見舞われる前途多難なスタートを切った(なお、ブルドッグスは4年目から本拠地をハミルトンに移転した)。また同年1月2日に、ワンダラーズ及びカナディアンズの本拠地であるモントリオールのウェストマウント・アリーナが火災で焼失した。ワンダラーズはカナダにおける初期プロホッケーチームのなかでも最も歴史あるチームだったが、当時既に人気に陰りを見せ始め、火災の発生によりチームは解散、その歴史に幕を閉じた。

ブルドッグスとワンダラーズの不在によって、NHLは発足年の第2ハーフ及び2年目を残り3チームで運営した。リビングストンはリーグから締め出されたものの、彼がNHAに対して提案した通常シーズンの分割案は新リーグにおいて採用され、プレイオフ制度としてまとめられた。NHLのスタンレー・カップ(当時はカナダでのホッケーチャンピオンに与えられる賞)の初代優勝チーム(1893年シーズン)はトロント・アリーナズであった。

しかしながら、気性の激しいリビングストンは、アリーナズから上がった収益の分け前に与ろうとして失敗に終わると、チームとNHLを訴えた。この紛争は1930年代までだらだらと続き、結局アリーナズはトロント・メープルリーフスと改名するに至った。リビングストンとNHLの生成の歴史を振り返ってみると、いささかの皮肉がある。カナディアンズオーナーのジョージ・ケネディの弁を借りれば、リーグの他のオーナー達を排除することに熱心だった男が、実は「NHLを真のリーグとする」ことに貢献したも等しかったのである。

発足後10年間、リーグ自体は事業を軌道に乗せるのに四苦八苦していた一方で、氷上ではNHLの各チームはかなりの成功を収めており、スタンレー・カップにおいては最初の9年間で7度の優勝を達成している(なお、1919年は、シアトルで猛威を振るったスペイン風邪によりシーズンが中止)。

1926年頃より、NHLの選手の平均年俸が他のカナダのリーグと比較して著しく高騰したために、NHL加盟チームのみがスタンレー・カップに出場することになった。また、NHLはアメリカ合衆国へも拡大をみせ、1926年から1931年までにチーム数が10まで増加した。ところが、1929年世界恐慌によりNHLは大きな痛手を被ることになった。例えば、ピッツバーグ・パイレーツやニューヨーク・アメリカンズなどのチームが現れては消滅し、伝統のあるオタワ・セネターズでさえも財政的困窮によりチーム閉鎖を余儀なくされた。
第二次世界大戦中、オリジナル・シックス時代

このような成り行きに追い討ちをかけるかのように第二次世界大戦の勃発によって、発足25周年を迎える1942年にはNHLのチーム数は6チームまでに減少した。


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