NHK教育テレビジョン
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13:30-14:00 母親から教師から・入学前にしつけておきたいこと(14:00-15:00 放送休止=モノスコープによる試験電波

15:00-16:05 NHK東京教育テレビジョン放送開局記念式典実況(NHKホール内幸町〉から公開生中継)(16:05-18:00 放送休止=試験電波)

18:00-18:03 放送再開・おしらせ

18:03-18:10 漫画映画ロデオ大会」

18:10-18:40 びっくり百科

18:40-19:00 連続ドラマ「鉄砲小彌太」

19:00-20:30 NHK東京テレビジョン放送開局記念特集

式辞:NHK会長・野村秀雄

テレビを生活に生かすには(練馬公民館から公開生中継)


20:30-21:15 日本の歴史・日本人と国家の起源

21:15-22:00 音楽夜話(実質的なこの日の最終番組)

話:「ベートーベンの遺跡をたずねて」

演奏:ベートーベン作曲「ロマンス」より、ヘ長調ト長調


22:00-22:03 おしらせ・放送終了

東京は完成から間もなかった東京タワーから1chで開局し、同年4月6日に千代田区の送信所(後の千代田放送会館)から3chで放送されていた総合とチャンネルが入れ替わった。大阪はそれまでアメリカ軍レーダー用に割り当てられた12chが使用された。全国的にみても、教育テレビのアナログ放送には、12chが割り当てられている地域が比較的多かった。なお、教育テレビが全国に置局化されるまでは、教育テレビの未開局の地域では総合テレビで一部の学校放送番組が放送されていた。

カラー放送は、先ず東京で、1959年4月6日に、前述の総合テレビと教育テレビのチャンネルが入れ替わったのを機に、それまで総合テレビでやっていたその実験放送がそのまま教育テレビに引き継がれ、翌日からそれを引き継いで開始[8]。翌年(1960年)9月10日の本放送の前日まで行われた。そして、翌日からの本放送は、東京・大阪共に、総合テレビと同日に開始された。NHKアーカイブスの番組表検索によると、本放送開始の1960年(昭和35年)9月10日の幼児向け番組「かっちゃん」に[注 8]との記載があり、9月12日以降、『理科教室小学校1年生 ?なんなんなあに?』、幼児向けの『できたできた』、小学生高学年向けの『美術教室』『音楽教室』などが、東京ではカラーで放送されており(その後一部は大阪でもビデオ送りでカラー放送となった)、その多くが同年4月の実験放送時から、後の本放送化を考えてカラーで制作かつ実験放送されていた番組である。[9]
オイルショックとその後の変容

第1次オイルショックの影響を受け、1974年(昭和49年)1月16日以降、14:30から17:30のうち1時間から3時間を休止に充てるとともに[10]、深夜も23:00で放送が打ち切られた[11]。ただし早終い全面解除までその後10年を要した総合と異なり、2か月半後には深夜の終了が30分延ばされ23:30に、9月には日中の放送休止解除、そして翌1975年(昭和50年)度には東京・大阪のアナログUHF実験局閉局もあり、放送大学の開学に向けた実験番組『大学講座』を放送[注 9][注 10]することになったため、1年2か月半ぶりにオイルショックによる時間短縮措置が全面解除された。

放送自体のカラー化開始は総合と同時期だったのに対し、番組の全面カラー化は渋谷の放送センターへ東京の拠点集約を完了してからもまだ実現せず、1977年(昭和52年)10月1日であった[注 11]。このカラー化により日本のテレビ番組から、過去作の再放送等を除いた白黒放送が消滅した。

アナログ音声多重放送については、1980年代半ばまでは計画がなかったが、まず三大都市圏で1990年平成2年)10月から、その他は翌年3月21日春分の日)からの実施であった。いずれも総合テレビや在京・在阪民間放送より相当遅かった。文字多重放送字幕放送)については1999年(平成11年)と、さらに開始が遅かった。

しかし、これらのサービスを開始することにより、教育テレビの編成における制約が徐々に少なくなっていった。この動きに合わせるかのように、それまで総合で放送されていたジャンルの一部が、衛星テレビジョン本放送開始も相まってジャンル整理の一環として教育テレビに移ってくるようになった。総合で放送されていた子供向け番組は、平成時代に入ると姿を消し、教育テレビに集約された。総合の空いた時間帯には、報道・情報番組が編成されるようになっていった。

なお、衛星放送は当初、1984年5月12日試験放送の名目で、2チャンネル同時開局して、衛星第2放送を使って教育テレビとの完全サイマル放送を行う予定だったが、ゆり2号aの太陽電池の不具合の発生に伴い、当初総合テレビジョンの完全サイマルを予定していた衛星第1放送のみの開局[12]となった際、一部の番組の時差編成を中心に放送が開始され、1986年12月26日から衛星第2放送が開局後から正式に教育テレビとの完全サイマル[13]に移行した。

その後1987年7月4日から、衛星第1放送が完全自主編成による24時間放送となったのに伴い、地上波難視聴対策放送は衛星第2放送に集約[14]されるが、大半の時間は総合テレビとの同時生放送が主であり、教育テレビは地上波からの時差放送が主となり、1989年6月3日6月1日より本放送開始)以後[15]は衛星第2放送でも自主編成を主体とした放送に移行したため、地上波の難視聴対策編成は時差編成(報道・スポーツ・連続テレビ小説大河ドラマ等一部は同時生放送)が主体となる。特に、語学・一般向け教養番組は深夜0-3時台、学校向け放送は4時台[16]に編成されることが多くなる。2011年3月31日でBS2の放送が終了、NHK BSプレミアムへ移行[17]し、(新)BS1同様完全自主編成となったため、地上波難視聴対策放送は事実上終了した。ただし、地上デジタル放送の難視聴地域対策の一環で、2010年3月11日より2015年3月31日まで[18]の暫定処置として、BS292を使用した衛星のセーフティーネットによる同時放送は行われていた。
時間枠の拡大・縮小

後述の表でも説明するが、放送開始当初は1日5時間[注 12]で、早朝、および日中のうち午後の時間帯は放送休止となっており、その時間帯は放送設備点検のためのテストパターン画像とレコード音楽を延々流す程度[注 13]だった。その後放送時間の拡大が進み、1964年には午後0時台(午前12時台)の休止が廃止、さらに早朝放送も開始するようになった。終日放送[注 14]となったのは1967年4月度の改編の時である。

時間枠の拡大は、長らく編成上止むを得ずどうしてもという場合に限られていた。山田誠浩のアナウンスによる放送終了告知[注 15]も存在したが、放送されることは極めて稀であった。

教育テレビが大規模に時間枠拡大に向けた動きを見せたのは、1989年(平成元年)11月頭に3夜連続で編成した『Channel E ウィークエンドラリー』が最初であった[19]。ただしこれは終夜放送ではなく、午前2時前後に終了するものであった。実験的編成であったため、この時は継続して行われることは無かった。

1990年代後半になって、少しずつ「24時の壁」が破られるようになる[注 16]1998年(平成10年)度には語学講座の深夜編成により月-金曜の一部は0:35(放送日基準24:35)終了となった。翌1999(平成11)年度はさらに拡大され、月-金曜は2:00(放送日基準26:00)までに。そして翌2000年(平成12年)には遂に、原則第2・4・5週の日曜深夜=月曜未明[注 17]を除き、5:00基点の24時間放送を開始した。ただ当時は第2・4・5週の日曜の翌日が祝日や振替休日になる場合、放送休止の編成に対する批判の声が多かった[注 18]大地震津波が発生した場合以外の自然災害=災害対策基本法履行、及び大事件など有事発生時の速報義務が、いわゆる「全波全中」を伴うものを除き、教育放送系チャンネルには無いため、2000年(平成12年)7月以後も放送休止は全国一斉に行われている。


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