NBC交響楽団
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RCA、NBC、トスカニーニ

NBC交響楽団の設立とその運営の実態については、以下のような証言や報告がある。

1937年11月8日、トスカニーニは自分との契約のため多くの従業員が解雇されるという報告を受け、NBCに関する契約の破棄を申し出た。NBC側の交渉役サミュエル・チョチノフ(Samuel Chotzinoff)は驚き、「契約に際し1名の音楽家も解雇されません。それどころか、貴殿との契約によりNBCはフルオーケストラの創設にたどり着き、需要の増した技術・広報・報道の各部署に数名の人員を採用することとなりました」と虚偽の返電を送った。トスカニーニはチョチノフを友人と考えていたため、(おそらく真実を知らないまま)契約破棄を思い留まったが、実際は新規採用の61名の代わりに局内オーケストラの多くの楽員が解雇されたと推測されている[1] [2]

また、NBC響を説明する際、決まり文句のように「トスカニーニひとりのために交響楽団を設立」という表現が使用されることが多いが、この点に関する疑義もある。すなわち、事実は従来からの局内オーケストラ内に「NBC交響楽団」として活動するグループを組織しただけではないかという指摘である[3]

ハギンによると、楽員はトスカニーニ指揮による週末のコンサートのリハーサルと本番以外に、他の多くの番組のための演奏に参加せねばならず、その状態は1945年1月にブルーネットワーク(Blue Network)と呼ばれるラジオ放送の系列をNBCが売却するまで続いたという。1945年以降も半数が局内オーケストラとの掛け持ち、半数がエキストラであり、後者にはジャズの演奏家も含まれていたという。ハギンは、1950年までのNBC響の演奏が最上と言えない理由として、楽員のこのような不安定な就労形態を挙げている[4]

サックスによると、1938年時点の局内オーケストラの人員は115名であり、週30時間の契約時間を「トスカニーニ用」と「その他の番組用」で折半することになっていたが、このことをトスカニーニには意図的に知らせなかったという[5]。しかし1940年冬には、トスカニーニもこれらの事実の概要を知った[6]

では、なぜNBCはさまざまな無理を重ねて交響楽団を持とうとしたのか。その背景として「ラジオで音楽を楽しむ」という放送文化が当時発達途上であったという指摘がある[7]。当然生じた局同士の競争で優位に立ち、ラジオ受信機・蓄音機・レコードの販売を促進する[8]という要請があったはずである。そこで、(トスカニーニへの敬意や愛情でなく)この競争を勝ち抜く戦略のひとつとして専属交響楽団の設立が企画され、ネームバリューのあったトスカニーニをひとつの有力な「駒」として起用したのだと推測される。サックスは、「(以下要約)RCAはトスカニーニを“資産”であると見なしたが、彼の存在に社の将来がかかっているなどというばかげた考えをする者は社内にいなかった。むしろ、NBC響は費用対効果が悪く全面的に解体すべきであると考える取締役が多かった」と書いている[9]

事情が明らかになるにつれ、トスカニーニにも不満が募ってきたが、NBC響は巨大企業RCAの末端に過ぎず、要求を出そうにもそれを聞くべき理事会がそもそも存在しなかった[10]。トスカニーニはそれまで「気に入らないことがあれば要求を出し、それが受け入れられなければ去る」という態度で歌劇場やオーケストラと対峙してきたが、そのやり方は20世紀の米国の大企業には通用しなかった[11]

山田治生は、「NBC響はトスカニーニのために用意されたオーケストラであったが、トスカニーニのオーケストラではなかった」「ある意味、NBC響は親会社であるRCAという大企業のアクセサリーに過ぎなかったともいえる。トスカニーニにしても、NBC響の音楽監督ではなく、人事権もなく[12]、組織の中で確固としたポジションを持っているわけでもなかった」と述べている[13]
トスカニーニの初指揮

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出典検索?: "NBC交響楽団" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年11月)

トスカニーニのNBC響への初御目見えは1937年のクリスマス、12月25日であった。曲目はヴィヴァルディ調和の霊感』より第11番、モーツァルト交響曲第40番、そしてブラームス交響曲第1番であった。

初シーズンでトスカニーニは10週にわたり10コンサートを指揮、放送する契約だったが、放送が好評だったこと、トスカニーニ自身もNBC響の出来に満足だったこともあり、さらに1コンサートが追加された。加えて数回の慈善コンサートが放送なしで行われた。
その後の関係

トスカニーニとNBC響との関係は概して良好だったが、17年の間に危機がなかったわけではない。

トスカニーニは楽団員のレベルが低いと考えた場合、情け容赦なく退団を命じた[14]。また、リハーサル中不満があるとイタリア語で悪態をつき中断することもしばしばで、それは一種の恐怖政治だったことは間違いない[15]。もっともこれはNBC響に対してのみでなく、スカラ座、ニューヨーク・フィルなどの前任地、また客演時も同様であった。

最大の危機は1941年から1942年のシーズンに訪れた。1940年冬頃、NBCに対する不信感を決定的にする出来事が起き、NBC側から辞任を促されたトスカニーニは1941年春にNBC響を辞任した[16]。NBCは、レオポルド・ストコフスキーを常任に据えた。

トスカニーニがNBC響の何に不満だったのか、正確なところはわかっていない。契約上はトスカニーニが全権を掌握することになっていたにもかかわらず、面従腹背状態の親会社NBCの彼の意に反する人事、(客演指揮者による)コンサートを行ったためとの説、ヨーロッパでの戦乱がトスカニーニを不安に陥れていたためとの説などがある。

皮肉なことに、トスカニーニとNBC響を再び結びつけたのはこの戦争であった。1941年12月6日、米国の参戦直前に彼は「防衛国債(defence bonds)」購入を呼びかける財務省主催の慈善コンサートのため、(渋々)NBC響の指揮を行っている。そして米国参戦後には「客演指揮者」として大々的に復帰し、いつの間にか彼と交響楽団との関係は元に戻ったのである。1942年から1943年のシーズンからはストコフスキーと並んで常任指揮者の地位に復帰、ストコフスキーが去った1944年から1945年のシーズンからは再び単独の常任指揮者として君臨する。


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