NASCARカップ・シリーズ
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NASCARカップ・シリーズカテゴリストックカー
国・地域アメリカ合衆国
開始年1949年
エンジン
サプライヤーシボレー
フォード
トヨタ
タイヤ
サプライヤーグッドイヤー
ドライバーズ
チャンピオンライアン・ブレイニー
チーム
チャンピオンチーム・ペンスキー
マニュファクチャラーズ
チャンピオンシボレー
公式サイト ⇒NASCAR Cup Series
現在のシーズン

NASCARカップ・シリーズ (NASCAR Cup Series) は、NASCARが主催するストックカーレースのトップ・カテゴリー。
概要

1949年にストリクトリー・ストック・シリーズ (Strictly Stock Series) としてスタートし、翌1950年にグランドナショナル・シリーズ(Grand National Series)と改名された。1972年からタバコメーカーのR.J.レイノルズ・タバコ社の協賛で、ウィンストンカップ・シリーズ(Winston Cup Series)として行われたが、2004年からスプリント・ネクステル社がスポンサーとなり、ネクステルカップ・シリーズ(NEXTEL Cup Series)となった。2008年からはシリーズ名称をスプリントカップ・シリーズと改称し、2017年からはモンスターエナジー・NASCARカップ・シリーズと改称した。

アメリカ6大スポーツの一つであるモータースポーツの頂点に位置するレースであり、アメリカにおける視聴者数は1レースあたり200万人から500万人に登る[1]。なお日本で最も人気の高いアメリカンレースの、インディカーの平均視聴者数は50万人ほどである[2]

シリーズを構成する多くのレースの起源はアメリカ合衆国南部にあり、南部で根強い人気を持つが、次第に成長し現在ではアメリカ合衆国における最も人気のある6つのプロスポーツの内の1つとなった。最も有名なデイトナ500は、2009年には約1,600万人がテレビで観戦した[3]。シリーズはカナダでも開催され、エキシビジョン・レースが日本オーストラリアで開催された。

カップシリーズで使用される車両は、他の自動車レース車両と比較してユニークなものである。エンジンは200mph(320km/h)以上の速度に達するほど強力であるが、1.5トンを超える車重のため操作性は不十分である。ボディとシャシーはイコールコンディションを保つため厳密に規定される。また、エレクトロニクスは質実剛健なものである。

2007年シーズンから、コスト抑制や安全性向上などを目的にカー・オブ・トゥモロー(CoT)と呼ばれる新型車の導入を開始しており、2008年シーズンからは全レースでCoTが使われている。

2013年、スプリントカップにてカー・オブ・トゥモローの発展型、「ジェネレーション6(Gen-6)」を導入した。この新型車両は、それまでのCoT(以下、Gen-5)に比べてベース車両により近い外観を持ち、2006年までの車両に相当するメカニカルグリップを得る方針で開発された。 Gen-6ではダウンフォースが増加した他、車体も軽量化している。エンジンフードとトランクリッドCFRP製とし、その重量はGen-5より150ポンド(68kg)削減された。
歴史
ストリクトリー・ストック、グランドナショナル

NASCARは1948年にモディファイド・レース(英語版)、ロードスター・レースを認可し、翌1949年にはストリクトリー・ストックを導入した。8つのレースが異なったダートのオーバルコースおよびデイトナビーチ・ロードコース(英語版)で開催された[4]

最初の「ストリクトリー・ストック」レース(英語版)は1949年6月19日にシャーロット・スピードウェイ(英語版)で開催された。グレン・ダナウェイ(英語版)がレース後の車検で車両後部のスプリングを変更していたことで失格し、レースはジム・ローパー(英語版)が優勝した。初代シリーズチャンピオンはレッド・バイロン(英語版)であった。シリーズは1950年シーズンに「グランドナショナル」と改名された。この改名はNASCARのシリーズをよりプロフェッショナルでより格調高いものにしようとする意向が反映されたものであった。シリーズは1971年までグランドナショナルの名称で開催された。

1949年のNASCARストリクトリー・ストック・シリーズ(英語版)はNASCARの記録ではグランドナショナル・カップの最初のシーズンとして取り扱われている。マーティンズビル・スピードウェイ1949年のシーズンが開催されたサーキットの内、唯一現在もシリーズが開催されるサーキットである。7度のシリーズチャンピオンに輝いたリチャード・ペティ

グランドナショナル・カップは1シーズンに60回以上のレースを開催したシーズンが数年間あり、しばしば2から3のレースが同じ週末に開催され、時折別々の州で同じ日に開催されることもあった。

シリーズ開催初期には大半のレースが未舗装のショートオーバル(4分の1マイルから2分の1マイル)もしくは未舗装オーバル(2分の1マイルから1マイル)で開催された。最初の221戦のレース中、198戦がダートコースで開催された。1950年にオープンしたダーリントン・レースウェイは、初の完全舗装が行われた距離1マイル以上のサーキットであった。1959年、デイトナ・インターナショナル・スピードウェイがオープンしたが、いまだ舗装コースよりもダートコースの方が多数であった。1960年代を通してスーパースピードウェイが次々と建設され、古いダートコースが舗装されるようになると、徐々にダートレースの数は縮小していった[5]

ダートコースで行われた最後のNASCARレースは、エアロ・ウォリアーズ(英語版)時代の1970年9月30日にノースカロライナ州ローリーのステート・フェアグラウンド・スピードウェイ(英語版)で行われたレースであった。1970年式プリムス・スーパーバードを駆るリチャード・ペティが優勝し、優勝車両はペティ・エンタープライズ(英語版)からドン・ロバートソンに売却、再びレースに貸し出された[5]
ウィンストンカップ

1972年から2003年まで、NASCARのトップカテゴリーはR.J.レイノルズ・タバコ社が冠スポンサーとなり、同社のブランドであるウィンストンの名が冠され、ウィンストンカップ・シリーズ(Winston Cup Series)と呼ばれた。後にタバコ広告が公衆健康の為のシガレット喫煙法(英語版)や1998年タバコ製造社和解契約(英語版)等のタバコ規制法で制限されるようになると、R.J.レイノルズのスポンサーシップは論議を呼ぶこととなった。

R.J.レイノルズがスポンサーとして関わり、シリーズのレース数は1年当たり48から31程度まで減少、1972年には近代NASCARが確立した。シーズンはより短縮し、続く4年間でポイントシステムは何度か変更された。ダートコースでのレースは取りやめられ、オーバルトラックは250-マイル (402.3 km)より短い距離で争われるようになった。NASCARの創始者であるビル・フランス・シニア(英語版)は長男のビル・フランス・ジュニア(英語版)にその運営を譲り渡した。1974年8月、フランス・ジュニアはシリーズの宣伝担当であるボブ・ラットフォードに、レースの距離や賞金に関係なく、全てのレースで等しく授与されるポイントシステムの設計を依頼した[6]。このシステムにより、シリーズチャンピオンになるためには全てのレースに参加しなければならないようになった。このシステムは1975年に導入され、2004年にチェイス・フォー・ザ・チャンピオンシップが導入されるまで、変化の無いまま使用された。7度のシリーズチャンピオンに輝いたデイル・アーンハート

1982年以来、デイトナ500はシーズン最初のエキシビション・レースとして開催されている。

ABCスポーツは1970年、グランドナショナル・シリーズのタラデガ、ノース・ウィルクスボロ・スピードウェイ(英語版)、ダーリントン、シャーロット、ナッシュビルのレースを完全もしくは部分的に生中継放送した。これらのレースは他の多くのシリーズ戦に比べ面白味に欠け、ABCは生中継を中止した。代わりに編集を施したものがスポーツバラエティの「ワイド・ワールド・オブ・スポーツ(英語版)」で放送された[7]

1979年のデイトナ500(英語版)は、CBSでスタートからフィニッシュまで全国的にテレビ放送された最初のストックカーレースとなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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