NASA
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この後アメリカ初となる弾道飛行に成功。
マーキュリー計画詳細は「マーキュリー計画」を参照

NASAが最初に行ったのは、冷戦下におけるソ連との熾烈な宇宙開発競争の中で実施された有人宇宙飛行計画であった。1958年に開始されたマーキュリー計画はまだほとんど手探りの状態で、そもそも人間は宇宙空間で生存できるのかという初歩的なことを調べることから開始された。また空軍からも代表者が送り込まれ、NASAを支援した。飛行士の選抜は、すでにいる選び抜かれた軍のテスト・パイロットの中から候補を絞り込めばよいだけなので、比較的容易であった。

1961年5月5日、第一次選抜飛行士「マーキュリー・セブン」の一人であるアラン・シェパード(Alan Shepard)飛行士がマーキュリー宇宙船「フリーダム7」で15分間の弾道飛行に成功し、アメリカ初の宇宙飛行士となった。その後1962年2月20日にはジョン・グレン(John Glenn)飛行士が「フレンドシップ7」で2時間半の飛行を行い、初の地球周回飛行を成功させた。
ジェミニ計画詳細は「ジェミニ計画」を参照ジェミニ1号の打ち上げ

マーキュリー計画の終了後、月飛行に必要な種々の問題を解決し実験を行うためのジェミニ計画が始まった。飛行士を搭乗させての初飛行は1965年3月23日ジェミニ3号で、ガス・グリソムジョン・ヤングが地球を3周した。続く9回の有人飛行で、長期間の宇宙滞在や、他の衛星とのランデブーやドッキングが可能なことが証明され、無重力が人体に及ぼす医学的データが集められた。またこれと平行して、NASAは太陽系探査のための様々な宇宙機を打ち上げた。史上初の有人飛行(ボストーク1号)と同様、月の裏側の写真を初めて撮影したのはソ連の探査機だったが、地球以外の惑星金星)を初めて探査したのはNASAのマリナー2号だった。アポロ11号の打ち上げ
アポロ計画詳細は「アポロ計画」を参照

アポロ計画は、人間を月面に着陸させかつ安全に地球に帰還させることを目的に構想された。しかしながらアポロ1号では、地上での訓練中に火災事故が発生し、飛行士3名が犠牲になった。これにより、アポロ宇宙船は人間を搭乗させる前に数回の無人試験飛行を行うことを余儀なくされた。8号10号は月を周回し、多数の写真を持ち帰った。1969年7月20日アポロ11号が月面に着陸し、ニール・アームストロングバズ・オルドリン両飛行士が人類として(また地球上に誕生した生物として)初めて、地球以外の天体の上に降り立った。13号では月に向かう途中で宇宙船の酸素タンクが爆発する事故が発生したが、3名の飛行士は無事地球に帰還することに成功した。アポロでは計6回の月面着陸が行われ、貴重な科学的データと400kg近い岩石のサンプルを持ち帰った。また土質力学流星物質地震学伝熱レーザー光線を使用した地球と月の間の正確な距離の測定、磁場太陽風など、多数の科学的実験が行われた。
スカイラブ計画詳細は「スカイラブ計画」を参照

スカイラブはアメリカが地球周回軌道上に打ち上げた初の宇宙ステーションである。100トン近く(正確には91トン)もある機体は1973年から1979年まで地球を周回し続け、1973年と1974年に3回にわたって飛行士が搭乗した。スカイラブでは当初は太陽系の他の惑星が及ぼす重力の変位の調査が行われる予定だったが、国民が宇宙開発に関心を失い予算が削減されたことにより任務が縮小された。実験の中には、微少重力が及ぼす影響を調べることや、搭載された望遠鏡で太陽の活動を観測することも含まれていた。当初はスペースシャトルとドッキングさせ、より高い安全な軌道に移行させることが計画されていたが、シャトルが初飛行に成功する前の1979年に大気圏に再突入して消滅した。3回目の搭乗員(SL-4)が1974年2月に下船した後、太陽の活動が活発になり、その結果地球の大気が暖められて大気圏が膨張し、機体にかかる空気抵抗が増大したため再突入の時期が早まったのである。スカイラブは1979年7月11日16:37(UTC)ごろに再突入し、オーストラリア西部からインド洋にかけて破片が散らばったが、いくつかの残骸が回収された。
アポロ・ソユーズテスト計画詳細は「アポロ・ソユーズテスト計画」を参照国立航空宇宙博物館に展示されているアポロとソユーズ両宇宙船

アポロ・ソユーズテスト計画は、1975年7月にアメリカとソビエト連邦の間で初めて行われた共同飛行計画である。アメリカにとってはこれがアポロ宇宙船の最後の飛行であり、また1981年4月にスペースシャトルが打ち上げられるまで、有人宇宙飛行は中断された。1981年4月12日スペースシャトルコロンビア」の初飛行
スペースシャトルの時代「スペースシャトル」、「ハッブル宇宙望遠鏡」、および「国際宇宙ステーション」も参照

1970年代から80年代におけるNASAの最大の眼目は、スペースシャトルであった。シャトルは1985年までに再使用可能な4機の機体が製造され、その1号機であるコロンビア号1981年4月12日に初めて打ち上げられた。

シャトルのニュースは、NASAにとって必ずしも明るいものばかりではなかった。打ち上げにかかるコストは当初に予想していたものよりもはるかに高くつき、発射が日常化されるにつれ国民は宇宙開発に対する関心を失っていった。そんな中で1986年に起こったチャレンジャー号爆発事故は、宇宙飛行にともなう危険性を再認識させることとなった。

そんな中で、後に国際宇宙ステーション(International Space Station、ISS)へと発展するフリーダム宇宙ステーション計画が、有人宇宙飛行の焦点として開始されたが、このような計画はボイジャー計画のような無人惑星探査に比べ、費用がかかりすぎるのではないかという議論がNASA内部にさえもあった。

その一方で、シャトルはハッブル宇宙望遠鏡(Hubble Space Telescope、HST)のような画期的な計画も成功させた。HSTはNASAとヨーロッパ宇宙機関(European Space Agency、ESA)の共同開発によって行われたもので、この成功によって他国の宇宙機関との協力という新たな道が開かれた。HSTに費やした予算は20億ドル以下で、1990年に稼働して以来、数多くの鮮明な天体写真を送り続けている。その中でも、草分けとなった「ハッブル・ディープ・フィールド(Hubble Deep Field)」は特に有名である。

1995年シャトル・ミール計画によってロシアとの共同計画も再開された。ミールとシャトルがドッキングすれば、これはもはや完全な宇宙ステーションであると言えた。このアメリカとロシアという宇宙開発における二大巨頭の協力関係は、ISS(国際宇宙ステーション)の建設作業において21世紀まで継続されている。2003年コロンビア号空中分解事故によりシャトルの飛行が2年間中断された間、NASAはISSの保守作業をロシアの宇宙船に頼ったことから見ても、両者の信頼関係の強さは明白である。


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