N・M・ロスチャイルド&サンズ
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彼はしばらくしてロンドンへと移り、1811年にN・M・ロスチャイルド&サンズを立ち上げた。同社を立ち上げたことは、彼が国債市場に介入する理由となった。

著名な歴史家にしてハーバード大学の教授であるニーアル・ファーガソンは、「N・M・ロスチャイルド&サンズは世界の債券市場を支配する国際的な巨大銀行の一つであり、現代で例えると、JPモルガンメリルリンチモルガン・スタンレーに、おそらくゴールドマン・サックスが合わさった感じの―そう、19世紀においては、現在のIMFのように数多くの国家の財政を安定させる役割を担っていた」と述べている。
19世紀前半

19世紀前半、ナポレオン戦争の最中、ロンドンのロスチャイルド銀行は、イギリス政府による同盟国へ転送する資金の調達を先導していた。独自のネットワークによって、スペインポルトガルに駐留していたウェリントン公の軍隊に資金を送ることができた。さらに、ロスチャイルド銀行は、1818年に、プロイセン政府に対する500万ポンドの融資を手配し、政府の債権を発行した。政府の計画に対して革新的かつ複雑な資金提供を行うことは、銀行の主力業務として、19世紀の大半を費やし形成されていった。

1814年、M・M・ヴァールブルク&CO を企業系列に加えた。

1825年までには、N・M・ロスチャイルド&サンズはシティにおいての財政力は強大になり、イングランド銀行の通貨発行権を手に入れ、流動性の悪化を防ぐことができた。

ロスチャイルドは1833年の奴隷制廃止法案の可決の為、150万ポンドを提供したにもかかわらず、奴隷制そのものにも携わっていた。[3][4]
19世紀後半ライオネル・ド・ロスチャイルド

ネイサンの長男であるライオネル・ド・ロスチャイルド(1808?1879)はロンドン支店長として成功を収めた。特筆すべきは、1875年にエジプトが財政難からスエズ運河の株式を手放そうとした際に、当時のイギリス首相であるディズレーリはこの株式を購入し、スエズ運河の筆頭株主になることを決断した。しかし、イングランド銀行から資金を下ろすためには議会の承認が必要であり、フランスも購入を狙っており、一刻を有する事態であった。ディズレーリはライオネルの下へ使いを飛ばし、必要な400万ポンドを借り入れた。その際にディズレーリが担保にしたものはイギリス政府そのものだった。

また、ライオネルはフランスに渡った叔父のジャコブ・マイエール・ド・ロチルドのように鉄道業への投資を始めた。

1869年には、ライオネルの息子であるアルフレッド・ド・ロスチャイルド(1842?1918)がイングランド銀行の理事に就任し、以後20年間その役職に就き続けた。さらに、1892年にブリュッセルにおいて開催された国際通貨会議にイギリス代表の一人として出席した。

ロスチャイルド銀行は、セシル・ローズが発展させたイギリス南アフリカ会社に投資した。次いで、ライオネルの三男レオポルド・ド・ロスチャイルド(1845?1917)は、1902年にローズがなくなった際に彼の遺産の管理を行い、オックスフォード大学においてローズ奨学制度を立ち上げる手助けをした。

1873年には、ド・ロスチルド・フレルスと共同で他の投資家ととも参加し、赤字のスペイン国営リオ・ティント銅鉱山を獲得した。彼らはこの会社を再編し、収益性の高い業務へと回した。1905年までには、ロスチャイルドの出資比率は30%を超えていた。この会社は後の資源メジャーリオ・ティントグループとなる。

また、このころ膨大な米国債の発行にかかわった(アメリカ合衆国の経済史#金ぴか時代: 1865年-1900年)。

1887年に、英仏ロスチャイルド家は南アフリカデビアスのダイヤモンド鉱山に出資し、筆頭株主となる。
20世紀から21世紀にかけて

1914年までにFRB[要曖昧さ回避]の株を獲得した。

第一次世界大戦により、ロスチャイルド家の実力に変化が起こった。戦争の後、ロスチャイルド銀行はアドバイザー業務へと着実に移行していき、ロンドン地下鉄を含む財政状態の悪い業務への融資を行った。


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