MiG-25
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MiG-25 / МиГ-25

ロシア空軍のMiG-25RBT
2012年2月撮影)

用途:戦闘機

分類:迎撃戦闘機偵察機練習機

設計者: ミコヤーン・グレーヴィチ設計局

製造者: 第21航空機工場(ロシア語版)

運用者


ソ連防空軍 ソ連空軍

ウクライナ空軍

ベラルーシ空軍及び防空軍

ロシア空軍


初飛行:1964年3月6日(Ye-155R1)

生産数:1,190 機

生産開始:1968年

運用開始:1970年

運用状況:現役
表示 R-40 ミサイルを搭載した MiG-25PD

MiG-25 (ロシア語: МиГ-25) はソビエト連邦ミグ設計局国土防空軍向けに開発したマッハ 3 級の航空機迎撃戦闘機型と偵察機型、敵防空網制圧型および練習機型がある。北大西洋条約機構 (NATO) がつけたNATOコードネームはフォックスバット (Foxbat) である。なお、当時の冷戦構造の下では西側諸国が入手できた旧ソ連の情報は限られていたため、トゥシノ航空ショーで存在が初公表されてからしばらくの間、この機体はMiG-23にあたるのではないかという観測が西側の間に存在していた。当機種がMiG-25であると広く認識されたのは、後述のベレンコ中尉亡命事件以降の事である。また、マッハ3級の実用戦闘機は、後にも先にも本機だけである。
目次

1 概要

1.1 開発

1.2 アメリカの不安

1.3 不安の解消

1.4 冷戦後


2 主な派生型

3 別名 Спирт-Воз

4 スペック (MiG-25P)

5 使用国

6 登場作品

6.1 映画

6.2 アニメ・漫画

6.3 ゲーム


7 脚注

8 参考文献

9 関連項目

10 外部リンク

概要
開発

1950年代アメリカ合衆国では B-58XB-70SR-71 などの超音速機が開発されており、ソ連はこうした侵入機に対する迎撃戦闘機の開発の必要に迫られていた。そこで、ミコヤン・グレヴィッチ設計局(以下、ミグ設計局)にその開発が依頼された。

ミグ設計局ではそれまで I-3U、I-7U、I-75、Ye-150といった超音速迎撃戦闘機の開発実績があり、その十分な研究成果を持っていた。また、これらの試験機では「ウラガーン」迎撃システムが試験され、超音速での迎撃システム構築の基礎データを集積していた。一連の試作機はYe-150とYe-152 で完成の域に達し、両機は持続時間は限定的ながら、高度 22-23 km の空域において最大 3,000 km/h での飛行を実現した。また、B-58、XB-70、SR-71という恐るべき標的に対し有効な攻撃を加えるため、長距離の捜索レーダーと長射程空対空ミサイルの開発も急がれた。

その結果完成されたのが、1961年に姿を現したYe-155[1] (Е-155) であった。これはYe-150/152の純粋な発展型であったが、所期の能力を達成するためにその機体構成は大きく変更されていた。まず、空気との断熱圧縮による高速飛行に際しての高熱に曝される部分においてはチタン合金を使用することで耐久性が高められ、機体外板の接合には、本来のリベット止めによる接合から、スポット溶接・アーク溶接・自動溶接機を組合わせての接合となった。また、強度を十分に確保するため、ニッケル鋼が多用されており、機体全体では、ニッケル鋼80%・アルミニウム合金11%・チタン合金9%の材料構成となっている[2]。高速性と高々度性能を持ちつつ安定性と運動性を確保するため、主翼は高翼配置となり、機体後部の垂直尾翼は外開きに2枚の垂直尾翼を取付けた双垂直尾翼となった。エンジンは強大な推力を発生する大型ターボジェットエンジン R-15-300 が2基搭載されたが、燃費が非常に悪いため機体容量の約70%が燃料タンクに充てられていた。大型の捜索レーダーを搭載するため、空気取入口は機首から機体両脇に移動され、長大な機首には大型のレドームが装備された。ここには、地上から上空の目標まで誘導される自動迎撃装置が搭載された。

Ye-155には迎撃戦闘機型のYe-155P (Е-155П) の他、高速偵察機型のYe-155R (Е-155Р) と巡航ミサイル母機型の Ye-155N (Е-155Н) が開発された。しかし、Ye-155N の実用化は見送られた。

Ye-155Pは「航空機ミサイルによる空中目標迎撃システム S-155」の主要構成要素となることが見込まれた。そのため、機体にはシステムに連動する大型の機上捜索レーダー「スメールチ-A」、誘導ミサイルの K-40 (のちにR-40として制式化) 、地上目標航法装置の「ヴォーズドゥフ-1」の機上航法指令送信装置「ラズーリ」が搭載された。

飛行試験は1960年代を通じて行われた。1962年から 1963年にかけて 4 機の Ye-155 が製作された。その内二機は迎撃戦闘機型の Ye-155P1 と Ye-155P2 で、残る二機は偵察機型の Ye-155R1 と Ye-155R2 であった。最初に組み立てられ飛行したのは Ye-155R1 で、1964年3月6日に初飛行に成功した。Ye-155P1 はこれに遅れること約半年、1964年9月9日に初飛行した。この飛行試験において、空力的・操縦性・システムなどの問題が多いことが判明したが、性能自体は目標を達成しており、その後も数機の試作機が製作され、改良型のYe-266は多くの速度と高度の世界記録を更新している。

1967年からはYe-155Pの最初の量産型機が製作された。1967年にはYe-155P7/8/9の3 機が、翌1968年にはYe-155P10/11の二機が製作された。これらは、S-155システムの国家試験に使用された。ソ連航空産業省の指令により、Ye-155P は1968年にMiG-25P (МиГ-25П) 、製品84 (Изделие 84)、(NATOコードネームはフォックスバットA) として制式化された。部隊配備は1970年より開始され、1972年に最初の飛行隊が実働態勢に入っている。

一方、偵察機型に関しては1968年に4 機目の試作機となる Ye-155R4 が製作され、これが最初の量産型機となった。Ye-155R2/3/4 の 3 機が国家試験に供され、試験は1969年10月に終了した。量産は1968年から開始されており、航空産業省の指令によりMiG-25R (МиГ-25Р)、(NATOコードネームはフォックスバットB) として制式化された。

MiG-25の生産は、ゴーリキー(現ニージュニー・ノーヴゴロト)の第21航空機工場(ロシア語版)で実施された。MiG-25Pは、それまでの主力迎撃戦闘機 Su-9Su-11 を代替してソ連防空軍の主力機となっていった。一方、MiG-25Rとその派生型偵察機などはソ連空軍での前線任務に入った。また、最高高度到達記録の37.6 km など、高度到達時間トライアルでは米国の SR-71 や F-15 ストリークイーグルF-4 ファントムのトライアル仕様機と熾烈な争いとなりこれらの機種と共に多くの記録を保持している[3]

MiG-25は最高速度が非常に速く、3,000 km/h (およそマッハ 2.83 相当)での飛行を目標に設計されており、実用化された戦闘機としては最速である。イスラエルのレーダーにマッハ 3.2、中東方面ではマッハ 3.4 の飛行速度が記録されている[4]。超音速ジェット機の最高速度は、エンジンの出力限界ではなく、機体の構造や空気の断熱圧縮による耐熱限界をもとに算出される場合が多い。MiG-25も、構造材のニッケル鋼で耐熱上の安全を確保できるのはマッハ 2.83までだったとされ、マッハ3を超える飛行は8 分程度が限界であり、かつ飛行した機体は再度の飛行は不可能、ないし飛行するためには修理が必要であった。
アメリカの不安

1967年7月に行われたモスクワドモジェドヴォ空港での航空ショーにおいて、MiG-25が突如出現し、上空を高速で通過していった。周到に演出されたこのフライパスのみならず、ソ連はこの航空ショーに、MiG-23Su-15を初めとした試作機や実験機を含む多種の機体を第3世代ジェット戦闘機として出品し、これらに大きな衝撃を受けた西側の航空機専門家はソ連の意図通りにその実体以上の過大な評価を下した。


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