MYCAL
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合併に伴い、マイカルが運営する店舗ブランドサティ」と「マイカルタウン」は、同日より「イオン」「イオンショッピングセンター」に統一された。当時は「統合によってサービスが大きく変わることはない」と発表された。

リーマンショック以降、消費低迷に歯止めがかからないことや、長引くデフレなどで流通業は苦しい経営環境にあることから、会社統合と店舗ブランド統一により、商品仕入れの一本化や人事・経理などの間接部門合理化により、500億円の大幅なコスト削減を目指した(産経新聞[要出典])。

なお、イオンリテールはこれに先立ち、2010年(平成22年)12月1日に「イオン」を全国展開していたイオンマルシェ(千葉市)を吸収合併している。3社統合により、別々に行っていた仕入れ商談の一本化を実施し、商品調達力を高めることなどで、総合スーパー事業の売上高・営業利益率を向上させ、2011年(平成23年)現在の0.8%から4%程度まで向上させ、収益力を立て直したい意向とした。
マイカルの経営破綻
小売業最大規模の破産

バブル時代末期の横浜博覧会が開催された1989年(平成元年)、横浜本牧在日米軍本牧海浜住宅跡地の広大な敷地に、大型店舗1号店として「マイカル本牧」が華々しく開業し、海外高級ブランドが多数出店した[6]。米軍に長期間接収されていた影響から、ジャズをはじめアメリカ文化が濃厚な本牧の街に、なぜかスペイン風で設計されており、当初より調整不足が感じられた。開業後は大盛況であったものの、交通の便の悪さがたたって次第に苦戦[6]。「マイカル本牧」開業時のテナント誘致に際し、マイカルは横浜市営地下鉄の本牧延伸を謳っていたものの[7]、本牧への延伸は結局実現しなかった[6]。そのため交通の便の悪さから客足が伸びず、みなとみらい地区の発展とともに客足を奪われた[6]。マイカル本牧はバブル景気の崩壊とともにテナント退去が相次ぎ、デッドモール化していた時期もあった[6]。その後も本牧に続いて各地に建設された巨艦店舗「マイカルタウン」はすべて赤字となった。

さらにバブル崩壊後の1990年代後半から2000年(平成12年)にかけて、ヤオハンと同様のドイツマルク建て社債転換社債の発行や、店舗資産の流動化(証券化)という手法で機関投資家から資金調達を行い、主に工場跡地への進出や地方自治体再開発事業で巨大店舗出店を立て続けに行った。しかし自社物件でないため賃貸料がかかり、運営コストが増大して財政を圧迫した。特に「マイカル小樽」や海外店の「マイカル大連」などの大型投資は致命的であった。マイカル大連は後に現地の大商グループに売却され、「麦凱楽(MYKAL)大連商場」として大連市青泥窪橋西安路開発区店の3店がある。

2001年(平成13年)初頭、銀行の不良債権処理とデフレ不況が社会問題となった頃から資金繰りに窮するようになり、同年9月14日午前にメインバンクであった第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)から金融支援の打ち切りを宣告され、経営破綻が確実となった。そこで第一勧業銀行と当時の四方修社長は、同じく第一勧銀をメインバンクとするイオンを支援先として会社更生法による再建を画策した。ところがこれに対し、ウォルマートからの買収を期待していた旧来の取締役たちが反発。経営陣が残り比較的早く再建が果たせる民事再生法による再建を主張し、四方社長と第一勧業銀行出身の取締役を取締役会で解任。山下幸三が社長に就任し、同日民事再生法の適用を申請した。この騒動は「9.14クーデター」と呼ばれ、同日13時40分過ぎに各テレビ局はニュース速報を流した。しかし同年9月28日にはわずか14日間で山下幸三が社長を辞任し、後任の浦野一雄が社長に就任するという顛末となった。マイカルグループ全体での負債額は1兆9,000億円(本社単体では1兆3,881億円)、当時は戦後第4位の規模となる倒産で、小売・流通業の倒産としては前年のそごうを上回る戦後最大規模となった[8]

メインバンクの支援を受けられないままの再建は苦しく、支援企業選びも難航したが、イオンが会社更生法下での支援を表明。2001年(平成13年)11月22日に発表され、民事再生手続の中止と会社更生法の申請がなされた[9]。マイカル倒産時の一連の騒動は、民事再生法と会社更生法が併存することのデメリットと会社更生法の使い勝手の悪さを示すこととなり、会社更生法の改正作業に影響を与えた。なお、マイカル本体と傘下の店舗運営会社は業績が悪化していたが、ワーナー・マイカル(現在のイオンエンターテイメント)、ピープル(現在のコナミスポーツ)、ジャパンメンテナンス(現在のイオンディライト)などの子会社の業績は好調であった。
社債問題

マイカルは経営破綻前に約3,500億円の国内普通社債(SB債)を、他に転換社債外債を発行し償還前となっていたが、マイカルに関わるこれら全てが債務不履行(デフォルト)となり、多くの投資家が被害を受けた。

破綻間際まで格付け機関による信用格付けは各機関とも、一定の信用リスクがある「B」以上としていたものの、(見せかけの)企業の安定性と高利回りが両立して謳われていたことから、機関投資家以外の地方公共団体第三セクターなども資金運用手段としてマイカル関連の債券を幅広く保有しており、億単位で損失を被ったところでは運用先選定などの責任追及が問題となった。

特に2000年(平成12年)から2001年(平成13年)9月の破綻間際まで、野村證券等の証券会社が複数回募集した900億円分の個人向け国内普通社債(一口100万円単位)に関しては、勧誘元のリスク説明が不徹底で損失を被ったとして、主婦資産家を中心とした個人投資家が単独あるいは集団で、証券会社や社債管理銀行の第一勧銀の業務を承継したみずほコーポレート銀行(現・みずほ銀行)に対し損害賠償を請求する民事訴訟を各地で提起した。これらの判決は概して棄却されている。なお、2003年(平成15年)の会社更生計画によって個人などの小口債権者に対しては額面の30%、大口債権者は10%を上限に弁済することが決定し、債権は無価値の紙屑とはならなかった。

またゼロ金利政策下であった2001年(平成13年)当時、複数の投資顧問会社が設定運用するMMFには高利回りを狙うため、マイカルのような一定の信用リスクが存在する債券をある程度組み入れており、9月11日に発生したアメリカ同時多発テロによる金融市場の混乱(NYSE取引停止・円高ドル安・世界同時株安発生)の後にマイカル倒産が発生したため、積極的運用を行っていたMMF商品に元本割れが発生した。元本割れは起きない金融商品とされていたMMFの安全神話が崩れたことで、金融・証券分野では大きな問題となった。
沿革

1963年昭和38年)11月8日 - 大阪の天神橋筋商店街の衣料品店「セルフハトヤ」と千林商店街の衣料品店「赤のれん」(岡本商店)を中核に、卸問屋のエルピス(大阪)・ヤマト小林商店(京都)を含めた4社の新設合併により株式会社ニチイ(旧法人)を設立。社名は日本衣料の略から。初代社長に西端行雄が就任。

1970年(昭和45年)9月1日 - 株式額面変更を目的として、休眠会社の内外商事株式会社が(旧)株式会社ニチイを吸収合併し、内外商事株式会社を存続会社として「株式会社ニチイ」(新法人)に商号変更。


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