MSX・FAN
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MSX・FAN
愛称・略称Mファン
ジャンル
パソコン雑誌ムック
読者対象MSXユーザ
刊行頻度月刊 → 隔月刊
発売国 日本
言語日本語
定価380円[1]→980円→1280円→1980円
出版社徳間書店インターメディア
編集部名MSX・FAN編集部
発行人山森尚
編集長山森尚→北根紀子
雑誌名コード208(本誌、プログラムコレクション)
205(ムック形態の時期)
645(単行本、プロコレ6以降)
刊行期間1987年3月 - 1995年7月
発行部数公称5万部(1993年自社[2]調べ)
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『MSX・FAN』(エムエスエックスファン、略称Mファン)は、かつて徳間書店インターメディア(略称TIM 現徳間書店)が発行していたパソコン雑誌MSXの専門誌。
概要

1987年3月創刊、1995年7月休刊。月刊誌で創刊号のみ1987年3月6日に発売、以降は毎月8日発売。月刊での発行は1993年2月までで、1993年3月より隔月刊誌に変更。雑誌だが、付録ディスクがつくようになってからの発行形態はムックで、その後1994年8月号で雑誌に戻っている。

創刊前の仮称は、「M-COMマガジン」。ゲーム情報と投稿プログラムがメインの記事の雑誌である。

「MSX FAN」と書かれることが多いが、正しくはMSXとFANの間には中黒が入る。

廉価版MSX2である、松下電器の「FS-A1」シリーズ、ソニーの「HB-F1」シリーズの発売後に創刊。最初に特集したゲームは日本ファルコムの『ロマンシア』『ザナドゥ』など。

MSX誌としては後発で、色々な試みが行われた。
創刊からMSX2+の登場まで

1986年末に3万円前後のMSX2が松下ソニーサンヨーの3社から発売されたのを受けて、ユーザー数増加が見込めたことから創刊に至った[3]。内容としてはMSX・FAN創刊直前に休刊したプログラム投稿誌『プログラム・ポシェット』誌からMSXの投稿プログラムを受け継いだ上で市販のゲームソフト情報を追加したような雑誌で、同誌と同様にコンピューター総合誌『テクノポリス』の弟分の存在だった。先発の兄弟誌としては、ゲーム専門誌の『ファミリーコンピュータMagazine』があった。また、弟分としてはゲーム専門誌の『PC Engine FAN』や『メガドライブFAN』などがあった。

誌面は新作ゲームなどの攻略、MSXの新作ハードのみならず最新のハイテクやイベント情報を紹介する「FFB(ファンファンボックス)」、読者投稿プログラムを紹介する「ファンダム」、広告と開発中の新作紹介、新作カレンダー、メーカー担当者へのインタビューから構成されており、別冊がつくこともあった。
「FFB」と「ゲーム十字軍」

「FFB」(FAN FAN BOXの略)では、ライター バボの独特な毒舌が冴える「おはなしこんにちわっ」や「暮らしの適当手帖」、野見山つつじのイラストと投稿イラストの批評コーナーなどがあった。

のちに「FFB」からゲームの裏ワザやQ&Aをのせるコーナー「ゲーム十字軍」が独立し、ゲームを愛好する読者から多くの投稿が寄せられた。このコーナーでは毎回アダルトものの画面を載せたり、編集者の方針で突発的にその特集をすることがあった。後には、中野カンフー!のナンセンスな4コママンガの連載も行われた。また、本誌に掲載された情報を集めた同名のムックも発売された。

ちなみに当初は創刊時に募集したイメージギャルに毎回コスプレをさせて十字軍などのトビラを飾っていたが、2回目の募集は行われず、トビラはモデラー製作のフィギュアに変更された。
投稿プログラムコーナー「ファンダム」

「ファンダム」には読者や、編集部の作った、MSX-BASICのプログラムリストを掲載していた。

当時廃れつつあったパソコンでプログラムを組んで遊ぶというスタイルでプログラムを打ち込み、目的のゲームを遊ぶという読者がいたことから、人気が高いコーナーでもあった。プログラミングを覚えたあとは、「ファンダム」に投稿するという流れもできていた。投稿プログラムが採用されると掲載者には掲載誌のほか、規定の原稿料(内容に応じ1?5万円)と掲載プログラムをROMカートリッジとして製作したものが副賞としてプレゼントされた。掲載プログラムのロムカートリッジ

screen0:width40の設定でプログラムリストが1画面に収まる長さの「1画面プログラム」などのコーナーを特設し、短いプログラムを奨励。掲載したプログラムのページには、解説やプログラマーからのコメントを設けられていた。

またチェックサムを載せ、プログラムリストの行番号を別色にして見やすくするなどの配慮が行われた。総集編として「MSXプログラムコレクション50本・ファンダムライブラリー」をムックとして刊行した他、傑作選「スーパープロコレ」も発行されている。これらをROMカートリッジ(のちにフロッピーディスク)に集めての販売もした。

創刊からしばらくすると、「ファンダム」でも機械語を用いたプログラムが掲載された。機械語によるプログラムはBASICで書かれたプログラムと比較し動作速度等などが優れていたため、多くの読者を機械語熱に走らせた。当初、「ファンダム」では機械語のみのプログラム(16進表記のダンプリスト等)は掲載しない方針だったので、投稿者はBASICで入力できる形式で投稿する必要があった。この制限から、機械語をエンコードした一見すると無意味に思えるような文字の羅列の形でソースコードに埋め込み、BASIC上から実行させるものなど、技巧をこらした投稿プログラムが、中期以降にはよく見られるようになった。その後、本誌に付録ディスクがつくようになって直接バイナリーファイルを収録できるようになったためBASICで入力する形式という制限は取り払われ、かなりボリュームの大きなゲームも採用されるようになると共に、機械語の解説なども行われるようになった。

投稿プログラムの多くはゲームプログラムだったが、本格的なグラフィックツールなどの実用的なプログラムやマウス書道ができるプログラムなど、個性的な発想で作られた作品も少なからず採用されていた。また後期になると投稿プログラムに対してクロスレビューを行い、複数の編集者の意見を直接掲載することも行われている。

1989年11月号に掲載の『水道管』並びに、1990年3月号に掲載された『水道管2』は後に、コンパイルと徳間書店が市販した『ゴルビーのパイプライン大作戦』の原案となった。さらに、このゲームの上から落ちてくる水道管を繋げるアイデアが『ぷよぷよ』のシステムの元ネタになったといわれている。また、『ファミマガディスク』の一部作品はこの「ファンダム」掲載プログラムをゲーム化したものとなっている。

「ファンダム」掲載プログラムは通算1,008本、投稿者平均年齢は18.08歳だった。
常連プログラマー

掲載プログラムの多い投稿者は「常連プログラマー」と呼ばれ、特に以下のような人物がいた。カッコ内は掲載プログラム本数。

Nu? (26)

SILVER SNAIL (20)

伊藤直輝 (18)

木内ヤスシ (17)

HIDEYUKI (16)

GEN (16)

Beta.K (14)

Romi (12)

TEIJIRO (11)

米屋のチャチャチャ (11)

横沢和明 (10)

OZO (9)

HASEMAKO (9)

YOSHIX (9)

NAGI-P SOFT (9)

なお、一部の投稿者は自分のウェブサイトを立ち上げており、当時のプログラムをダウンロードすることを可能にしている者も居る。
「ファンダム」の問題点

特に1画面プログラムで顕著だったマルチステートメントの多用や行数・文字数の短縮、スペースの排除、命令の省略、それらに加え機械語の使用は少ない文字数で作品表現の幅を広げた一方、プログラムのソースコードとしては著しく可読性を下げた。コメント行に直接キャラクタコードをバイナリとして置くなどの手法は、前述のとおり作業者には無意味な文字の羅列に見えるものである。

それらのトリッキーなコーディングは、技術や工夫としての面白みや掲載スペースが小さいというメリットはある反面、デバッグや読解を妨げるだけでなく入力そのものの効率も下げるものであり、雑誌掲載のプログラムとしても実用性は低かった。

他の入門誌であるマイコンBASICマガジンや機種別雑誌、パソコン誌の入門記事ではマルチステートメントの多用を避け、プログラムのサブルーチン化等を推奨し、コメントなどでは「読みやすさ」へ言及していたこととは対照的である。また、それらの入門記事や雑誌がデバッグも学習の一環としチェックサムなどはバイナリなど人間が直接読めないもの以外には適用しない傾向なのに対し、本誌では前述のとおりBASICプログラムに対しても入力ミスチェック用のチェックサムを提供している。
その他

その他の記事としては、MSX-MUSICが出た後にミュージシャン・横川理彦によるFM音源講座が掲載され、終了後は投稿コーナー「FM音楽館」となった。また、エスプリのきいたオリジナルショート投稿プログラムを紹介する「サウンドフォーラム」(後に「AVフォーラム」)も始まり、ここでは同じ投稿者が採用されるたびに、「称号」が増えていく、という試みがされた。このAVフォーラムには、後に声優となる野島裕史野島健児、および、作家となる野島智司の兄弟3名がF・I・Sのペンネームで常連として投稿していた。

「FAN STRATEGY」は当時はまだ黎明期だったシミュレーションゲームの攻略を扱うコーナー。読者からの投稿による一風変わった攻略法などが掲載された。主に光栄(現・コーエー)の歴史シミュレーションゲームをとりあげることが多かった。

後期に始まった「ほほ梅麿のCGコンテスト」は、ソフト会社ビッツーのデザイナーが記事を担当し、実際のプロの技法を紹介するとともに、コンテストの名の通り、読者からの作品投稿を受け付けていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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