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MBT-70/KPz.70MBT-70
性能諸元
全長9.10m
全幅3.51m
全高3.29m
重量50.5t
懸架方式油気圧式
速度65km/h
行動距離650km
主砲152mm ガンランチャー XM150E5(MBT-70)(KPz.70)
副武装20mm対空機関砲(750発)
7.62mm機関銃M73(6,000発)
装甲中空装甲
エンジンV型12気筒
空冷ディーゼル
1,475hp
乗員3名
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MBT-70/KPz.70は、1960年代にアメリカ合衆国と西ドイツが共同で開発に着手した、戦後第2世代主力戦車に替わる次世代戦車である。両国の設計方針の不一致や開発費の大幅超過により開発は中止されたが、後に開発されたM1エイブラムスやレオパルト2の開発に大きな影響を与えた。 1960年代初頭、アメリカではM60パットンに代わる次世代主力戦車の開発に着手し始めた。当時のアメリカ軍の主力戦車であるM60は、第二次世界大戦時に開発されたM26パーシングを基本として改良を重ねてきたものであり、能力的には特に問題のあるものではなかったが、基本設計の古さは否めないものであった。 対抗目標であるソビエト連邦の戦後型戦車は、常にアメリカの戦車を性能的に凌駕しており、これらに対抗するために今までにない最新の技術を盛り込んだ次世代戦車開発の必要性が叫ばれるようになった。当時国防長官だったロバート・マクナマラは、開発費を削減するためにNATO諸国との共同開発を指示し、イギリス、もしくは西ドイツとの共同開発が模索された。 一方、西ドイツは国産の主力戦車としてレオパルト1の開発を進めていたが、本格的に生産を開始した時にはソ連のT-62や自動装填装置を装備するという新型戦車(後のT-64)の性能を必ずしも上回る物ではなくなっていた。これを受けて、西ドイツ軍ではレオパルト1の改良プログラムを進める一方、早くも次世代戦車開発に着手し始めたが、レオパルト1の量産・配備と改良型の開発を進めながらの新戦車開発には予算上の困難が大きく、反対意見も多く出された。 このような状況を踏まえて、次世代戦車開発の必要性で米独両国は一致し、1963年8月1日、正式な開発協定が結ばれた。 1964年9月から本格的な開発計画が開始され、現行のソ連戦車に対して優位であるだけではなく、今後登場するであろう新型戦車に対しても優位を確保できることを第一に、最新の技術を十二分に盛り込んだ車両となることが目標とされた。この計画にはアメリカではMBT-70(MAIN BATTLE TANK 70)、西ドイツではKPz.70(Kampf Panzer.70)の名称が与えられ、それぞれ7両ずつ、計14両の試作車両が造られる事となった。 しかし、開発計画は当初から難航し、最初の設計段階において両国がそれぞれの設計デザインを強く主張し対立した。設計案には突撃砲スタイルの無砲塔型から、乗員を全て車体内に配置し、砲と自動装填装置だけを突出させたオーバーヘッド砲塔、砲塔を持つが半ば車体と一体化した、ドイツの駆逐戦車の戦闘室部分が左右に旋回するような埋没型の砲塔を持つものまで、多種多様の設計案が提示された。これはいずれも「極力前面投影面積を少なくすること」という基本方針に沿いつつも、アメリカはある程度の汎用性のある設計を求めたが、西ドイツは北部ヨーロッパの環境に最も適合した設計を主張したためである。結果としては全ての乗員を砲塔内に収容し車体と砲塔の全高を極力抑えたデザインが決定案とされたが、全高が低い代わりに砲塔が異様に大きいデザインとなり、当初の設計目的からやや外れた結果となった。 その後も設計に用いる単位にアメリカのヤード・ポンド法を使うか西ドイツのメートル法を使うか、主砲のシステムをアメリカ側のガンランチャー方式にするか西ドイツが開発した滑腔砲方式にするか、その他にもエンジン、サスペンション、装甲素材など事あるごとに両国は対立し、その都度意見を調整して両方の案をそれぞれ盛り込む妥協策が採られたため、開発期間は果てしなく順延されて行き、日を追うごとに開発費は高騰していった。
開発の経緯
開発MBT-70/KPz.70 最終決定案