MBSヤングタウン
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MBSヤングタウン
愛称ヤンタン
ジャンル
帯番組 / バラエティ番組
放送方式収録、生放送
放送期間1967年10月2日 -
放送時間22:00 - 23:30 (月 - 木、土、日)22:00 - 23:00 (金)
放送局MBSラジオ[注 1]
制作MBSラジオ
パーソナリティ【月】カベポスター
【火】オーイシマサヨシ
【水】Aぇ! group
【木】Aマッソ
【金】伊原六花
【土】明石家さんま
【日】笑福亭鶴瓶
テーマ曲MBSヤングタウンのテーマ
プロデューサー大沼耕平
公式サイト公式サイト
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『MBSヤングタウン』(エムビーエスヤングタウン)は、1967年昭和42年)10月2日からMBSラジオ[注 1]で放送されているラジオ番組。通称は「ヤンタン」で、番組開始から1970年(昭和45年)9月までのタイトルは『歌え! MBSヤングタウン』。

当ページでは曜日別の呼称として、便宜上「ヤン○」(○は曜日名の頭文字)という略称を使用する(#エピソードを参照)。なお、現在放送中の金曜日についてはMBSヤングタウン金曜日、土曜日についてはMBSヤングタウン土曜日、日曜日についてはMBSヤングタウン日曜日のページを参照。
概要

1960年代後半から、深夜番組の黄金期を築いてきた番組で、中元清純作曲のフュージョンによるテーマソング(通称『MBSヤングタウンのテーマ』[1])が代々、使われている。

なお、MBS以外のラジオ局が制作・放送した『ヤングタウン』のうち、TBSラジオ1969年(昭和44年)10月から1986年(昭和61年)9月まで関東ローカルで毎週土曜日に放送していた『ヤングタウンTOKYO』シリーズは当番組の姉妹番組に当たる。

NRNに加盟する地方局への裏送り番組として、1975年(昭和50年)4月から1986年(昭和61年)3月まで文化放送が制作していた『ヤングタウンAM』については、当番組とは直接の関係がない。

現在もパーソナリティを務めている笑福亭鶴瓶は1975年(昭和50年)から、明石家さんまは1976年(昭和51年)から出演している。
歴史
番組開始までの経緯

1960年代前半までのMBSラジオは在阪ラジオ局の聴取率において、ラジオ大阪(OBC)ABCラジオの後塵を拝していた。特に深夜帯では、『アナウンサーコーナー』と『ABCヤングリクエスト』の前に、大きく水をあけられていた。

MBSは1967年の春、ラジオ制作部の渡邊一雄ディレクター(当時)が、ラジオ編成部からの指示で、若者向け深夜番組の準備を開始。アップテンポなトークで、フォークソングロックをふんだんに流す番組の計画を練り上げた。

MBSは当番組の本放送を始めるまで、平日の深夜に半年限定。15分間のパイロット番組を放送。渡邊は入社 2年目ながら「若者の兄貴分」という雰囲気を漂わせていた、斎藤努アナウンサーを、この番組のパーソナリティに抜擢した[2]
1960年代

渡邊は本放送を前に、聴取対象を25歳以下の若者に限定し、「子供相手の放送」にしないことと、彼らに連帯感を持たせるべく、毎日放送千里丘放送センター(当時)内で最も広い第1スタジオで、放送日の夕方に公開収録を実施することを決定。
『歌え! MBSヤングタウン』のタイトルで、1967年10月1日日曜日)、0:10からの110分番組として本放送を開始した。なお翌日の2日にオールナイトニッポンが放送開始されている。

開始当初は斎藤が全曜日の公開収録で、パーソナリティを務めた。高橋キヨシ(ギタリスト)と十川尚子(ピアノエレクトーン奏者)をレギュラーに起用した。また、関西地方で活動するアマチュアのフォークグループ(アマチュアバンド)2組を日替わりで出演させるとともに、プロのバンドやフォーク歌手を随時ゲストに迎えていた[3]
第1回のゲストは、当時アマチュアで活動していたザ・フォーク・クルセダーズであった[注 2]

本放送に際しては、MBSラジオ編成部の計らいで、自社制作番組では最も多額の予算を付けられていた。開始当初は公開収録への人出や局内の評価は芳しくなかったが、回を重ねるたびに収録への参加者が増加。ヴィレッジ・シンガーズをゲストに迎えた公開収録(1968年1月)に観覧希望者が殺到したことから、以降の放送では、往復ハガキでの応募を条件に観覧希望者へ参加整理券を配布するようになった[2]

1968年からはMBSテレビで、毎週日曜日に放送していた『スミ子と歌おう』をヒントに、オリジナルソングを毎月1曲ずつ放送する「ヤンタン今月の歌」(後述)を始めた[注 3]

しかし、斎藤は同年4月からプロ野球中継の実況・リポーターも兼務。当番組への出演日が週の前半(月 - 水曜日)に限られるため、それまで月曜日の1コーナーにレギュラーで出演していた桂三枝(現・六代桂文枝)を、週の後半(木 - 土曜日)のパーソナリティに抜擢した。

同時に、収録での演奏に対するアマチュアバンドの応募件数が増加の一途をたどっていたことから、千里丘放送センター第一スタジオなどで、定期的にオーディションを実施するようになった[注 4]

これを機に番組の聴取率は、当時の深夜番組の平均の20倍に相当する4%にまで上昇[2]。当時駆け出しの落語家だった三枝を一躍スターダムに押し上げた。
MBSテレビでも、1969年7月から、斎藤・三枝の出演で当番組のテレビ版にあたる『ヤングおー!おー!』を放送。同年10月からはTBSラジオで、公開生放送形式で『ヤングタウンTOKYO』を開始した。

三枝は当番組と並行しながら『ヤングタウンTOKYO』に放送開始から1975年9月まで、パーソナリティとして出演。毎週土曜日、当番組の収録を終えた後、飛行機による移動を経て、『ヤングタウンTOKYO』の生放送に臨んでいた。
1970年代

1970年には、『ヤングおー! おー!』や大阪万博(千里丘放送センターの近隣で開催)の人気に押されるかのように、当番組への参加者が激減。『ヤングおー! おー!』が軌道に乗ったこともあって、当番組では同年9月、公開収録をいったん終了した[7]

1970年10月から、千里丘センター内ラジオ スタジオからの生放送へ移行するとともに、番組タイトルを現在の『MBSヤングタウン』に改称。当番組を放送する前の初心に還ることを目的に、斎藤を含む、MBSの男性アナウンサーと女性タレントのコンビ(後述)が週2日ずつ、パーソナリティを務めるようになった[8]が半年後、タレントのレギュラー出演を復活。
お笑い主体の路線へ回帰するとともに、人気のアーティストやバンドをゲストに迎えての公開収録を土曜日に再開した。

1972年4月、「今月の歌」を終了させる一方で、10月からは、放送時間を3時間に拡大。1973年4月には夜ワイド枠の放送に昇格して、放送開始時間を22:00に繰り上げた。

1974年2月1日から4月5日までは『只今ヤンタン準備中』(放送時間は平日21:50 - 22:00)が出演者による番宣を兼ねた番組が放送された[9]

1974年10月、日曜日のヤングタウンがスタート(放送時間は最初22:30 - 24:10、のちに22:30 - 23:55)。しかし1年6か月後の1976年3月改編で日曜日のヤングタウンは終了、「ヤン日」はその後1983年10月の再スタートまで途絶える。

1976年4月、『ヤンタンパートII ?こんばんはこんちゃんです?』が月曜 - 木曜23:40 - 24:25の枠でスタート(当時24:00までだった本編を短縮)。近藤光史と尾田かずみのパーソナリティが月 - 木の全曜日出演、1977年3月まで放送。

1976年1977年の在阪ラジオ局聴取率調査で、当番組の平均聴取率が10%台にまで到達。在阪 全局、全番組の中で、谷村新司、佐藤良子が出演する水曜日が1位。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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