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朴泰俊
各種表記
ハングル:???
漢字:朴泰俊
発音:パク・テジュン
ローマ字:Park Tae-Joon
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朴 泰俊(パク・テジュン、1927年10月24日陰暦9月29日[1] - 2011年12月13日)は、大韓民国政治家実業家。浦項総合製鉄(現・ポスコ)の設立者や、第32代国務総理として知られる。は青岩(チョンアム、??)。愛称はTJ[2]
略歴

慶尚南道東?郡(現在の機張郡)に生まれる。本貫密陽朴氏[3]。6歳の時に日本へ渡り、以降日本で育つ事となる。1945年、早稲田大学予科入学。日本の敗戦に伴って朝鮮に戻る。1948年朝鮮警備士官学校(6期)入学。このとき、第1中隊長だった朴正煕大尉と出会う。朴泰俊生徒は当時難問として知られていた弾道学の問題をすらすら解き、朴大尉に深い印象を残したという[4]。同年卒業後少尉に任官した。

朝鮮戦争時には、忠武武功勲章や花郎武功勲章を授与された。士官学校を卒業した当時の韓国軍将校の多くは、政府の措置によって、4年制大学の学士学位課程を履修していた事もあって、朴自身も1961年には檀国大学校に編入し、1963年8月に法学部政治学科を卒業した。

1953年11月、陸軍大学に入学し、首席で卒業[5]。陸軍士官学校教務処長を経て国防部人事課長を務めていた1957年秋、朴正煕と再会、彼の勧めで第25歩兵師団(師団長・徐鐘准将)参謀長に就任し、緊密な関係を結ぶようになる[5]1961年5・16軍事クーデターには直接関わることは無かったものの、朴正煕からはクーデターに失敗した場合は、自分の家族を任せると言われ、国家再建最高会議の委員として活動しながら、第一次五ヵ年計画の立案に関与した。

1963年に、少将を最後に予備役に編入した後は、経済界に身を移し、1964年には大韓重石の社長に任ぜられ、1年後に同社を黒字経営に転換した。1968年4月には、浦項総合製鉄の初代社長に就任し、10年後の1978年には、年間550万トンの鉄鋼を生産する世界屈指の企業にまで成長させた。浦項製鉄を経営していた際は、社員の福利厚生の充実にも熱心に取り組み、当時の韓国としては最高水準の住宅団地を造成し、社員の子女達の為の小・中・高等学校も設立した。朴正煕との関係も続き、1970年に政界からの圧力で必要な核心施設の購入許可が下りず、大統領となっていた朴正煕に相談しようか迷っていた朴泰俊に対し、朴正煕が1枚の紙を渡して望むことをすべて書けと命じ、朴泰俊の要望を一目した朴正煕が紙の左側上段に直筆で署名し承認を与えたという逸話も残っている[6]

教育者としても活動し、1986年にはアメリカカリフォルニア工科大学をモデルとした浦項工科大学校を創立した。

1980年10月に発足した国家保衛立法会議(第五共和国憲法施行に伴って解散された国会の機能を代行するために設置された)の経済第一委員長に就任した事をきっかけに政界にも進出し、1981年3月の第11代国会議員選挙民主正義党全国区候補として出馬、当選した。以降は、国会財務委員長を務めたほか、1988年には党代表に就任した。1990年1月30日に、統一民主党新民主共和党との3党合同によって民主自由党が成立した際は、党最高委員となったが、金泳三と確執を深めた事から、1992年大統領選挙を控えて、国会議員を辞職した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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