また、機動力が優先されたために装甲がもとのM4中戦車より薄くなっており、一応車体に装備された止め具(取り付けボス)を用いて増加装甲が可能であったもののほとんど使われておらず、最後期の車両では車体の止め具は省略されている。 M10の主砲であるT12、改め3インチ M7戦車砲は、同時期のM4中戦車に装備された75mm砲よりも対戦車戦闘能力に優れていた。後に新型M4が装備する76mm M1戦車砲と弾頭は共通で口径は同じ76.2mmだが、薬莢が異なり装薬が多く、砲身も若干長い。 通常のM62 APC(被帽徹甲弾)を用いた場合、敵であるIV号戦車の後期型が装備する75mm L/48砲に匹敵する威力があり、タングステン芯の入ったM93 HVAP(高速徹甲弾)を用いると、ドイツの88mm砲並みの貫通力を発揮した。しかし、この砲は前方に重く、このため、初期型では砲塔後部に砲弾・機銃やグローサー(履帯の滑り止めアタッチメント)などを集めてバランスをとっていたがまだ不十分であったため、中期型以降は後部にカウンターウェイトを搭載、後期型ではウェイトが後方に延長され、雑具箱になる穴が付けられた。 また、M4と異なり砲塔は手動旋回のみで、動力は付いていなかった。一応、油圧旋回装置搭載型も試作されたが、後継のM36の登場もあり、量産型で使われることは無かった。なお、現在コレクターが保有するイギリス軍型M10のアキリーズには、いつ頃搭載されたものかは不明であるが、油圧式旋回装置付きの車両が確認できる。 M10はフィッシャー・ボディ戦車部門で4,993両、M10A1はフォードで1,038両、フィッシャーで375両が1943年11月末までに生産された。アメリカ合衆国ではフォードV8 ガソリンエンジン搭載のM4A3の車台を用いたM10A1 GMCが生産され、これは、本国での訓練用となった。これは後に、M3 90mm砲を搭載した新型動力砲塔に換装したM36 GMCに改造され、後にディーゼルエンジン型のM10も一部が同様に改造されM36B2 GMCとなった。また、209両のM10A1が砲塔を撤去され、重砲牽引用であるM35 砲牽引車 (M35 Prime Mover)に改造された[1]。 装甲の一部を軽減し、主砲をM18同様のM1 76mm砲に換装して2t軽量化されたT72も試作された[2]。これは量産されることはなかったが、T23 試作中戦車(英語版)
武装
生産および派生型とアメリカ軍以外での運用M35 砲牽引車M36 GMCの開発にあたり主砲を90mm砲に換装したM10
1942年11月、アバディーン試験場における撮影
M18 ヘルキャットの生産が軌道に乗って以降、他の米国製兵器同様、M10 GMCも連合国にレンドリースされた。生産されたM10のうち、海外に提供された物は生産数の半分を超える約3,600両である。17ポンド砲搭載のアキリーズ
イギリス軍では1,748両が受領され「ウルヴァリン(クズリ)」のニックネームが付けられ、これとは別に自由フランス軍でも用いられた。しかし、英軍はその主砲威力を不十分であるとみなしていたため、供与されたM10を更に強力な17ポンド砲を搭載するタイプに改造した。こちらは軍需省により「アキリーズ(Achilles)」と命名されたが、運用する部隊ではこの名称は使われなかったという。アキリーズはイギリス軍の他にはカナダ軍が朝鮮戦争での派遣当初に使用していたが、これは間もなくより防御力の高いM4A2E8 シャーマン戦車に更新されている。
また、以前はほとんど知られていなかったが、M10はソ連赤軍にも52両が供与され、2個自走砲連隊に編成され1944年の夏季攻勢である「バグラチオン作戦」で活躍している。
中華民国軍は1949年にアメリカ合衆国の援助の一環として武装の取り外された状態(非武装のトラクターであるとして諸々の問題を回避するため)のM10の供与を受け、これに旧日本軍が使用していた九一式105mm榴弾砲を搭載した改造車両を製造し、共産党軍との戦いで使用した[3][4]。