M・E・クリフトン・ジェームズ
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アメリカ合衆国の俳優「クリフトン・ジェームズ」とは別人です。

M・E・クリフトン・ジェームズ
Meyrick Edward Clifton James
モントゴメリー元帥に扮したジェームズ
生誕1898年
オーストラリア西オーストラリア州パース
死没1963年5月8日(65歳)
イギリス イングランドウェスト・サセックスワージング
所属組織イギリス陸軍
軍歴1914年 - 1918年
1940年 - 1946年
最終階級少尉(Second lieutenant)
除隊後俳優
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バーナード・モントゴメリー元帥

メイリック・エドワード・クリフトン・ジェームズ(Meyrick Edward Clifton James, 1898年 - 1963年5月8日)は、イギリスの軍人、俳優。バーナード・モントゴメリー元帥とよく似た風貌をしており、第二次世界大戦中にはMI5の秘密作戦に参加した[1]
経歴

1898年、西オーストラリア州パースにて、役人だった父ジョン・チャールズ・ホージー・ジェームズ(英語版)と母レベッカ・キャサリン・クリフトン(Rebecca Catherine Clifton)の元、7人兄弟の末子として生を受ける[2][3]

第一次世界大戦ではロイヤル・フュージリアーズ(シティ・オブ・ロンドン連隊)(英語版)の一員として従軍し、ソンムの戦いにも参加した。戦後、クリフトン・ジェームズは俳優の道を選ぶ[4]第二次世界大戦が始まると、彼は慰問のための芸人として陸軍に再志願した。当初は国民娯楽協会(英語版)(ENSA)に配属されていたが、1940年7月11日から少尉として陸軍会計隊(英語版)(RAPC)に配属され[5]レスターにて勤務した。この時期、彼は会計隊付の演劇部および娯楽班で活動した。

1946年6月には陸軍を除隊するが、伝えられるところによれば以後しばらくは俳優としての仕事が中々見つからず、ロンドンに暮らす妻と2人の子供のために失業保険を申請しなければならなかったという[6]

1963年5月8日、ワージングのソーン通りにあった自宅にて65歳で死去[7]。1963年5月9日付のデイリー・メール紙では、モントゴメリー元帥自身がクリフトン・ジェームズの事を回想して次のように語っている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

彼は友人ではなかった。1度しか会ったことがない。無論、彼のほうは私を十分に観察していただろうが。彼はまったく、まったく素晴らしい仕事をしてくれた。大戦中の極めて重要な時期にドイツ人を騙したのだ。彼が亡くなったと聞いて、本当に悲しく思っている[8]
コッパーヘッド作戦詳細は「コッパーヘッド作戦(英語版)」を参照

1944年、ノルマンディー上陸作戦決行(D-Day)の7週間前、新聞を読み返していた連合軍の欺瞞作戦担当部局であるOps (B)(英語版)局長J・V・B・ジャービス・リード中佐は偶然ジェームズの写真を見つけ、彼がバーナード・モントゴメリー元帥とよく似ていることに気づいた。この情報を受け、MI5では彼を欺瞞作戦に利用することを計画したのである。ジェームズは陸軍映画班に勤務していたデヴィッド・ニーヴン中佐から、新しい映画に出演してもらいたいのでロンドンまで出頭するようにと連絡を受けた。この作戦は北フランスからドイツ軍の戦力を移動させることを目的としたより大きな欺瞞作戦の一環として展開された[9]

作戦には「コッパーヘッド作戦(英語版)」(Operation Copperhead, 「マムシ作戦」)のコードネームが与えられた。ジェームズはモントゴメリー元帥の幕僚たる肩書きが与えられ、元帥の話し方や癖、振る舞いなどを学ぶように命じられた。全く酒を飲まないモントゴメリーと対照的にジェームズは大酒飲みで、性格も全く異なっていたものの、コッパーヘッド作戦は継続された。ジェームズは作戦の一環として禁酒だけではなく禁煙も強いられ、また第一次世界大戦の戦傷で左手中指を失っていた為に義指が与えられた。

1944年5月25日、ジェームズはノーソルト空軍基地(英語版)からチャーチル首相の個人所有機に乗り込み、ジブラルタルへと飛んだ。そして元帥に扮したジェームズはジブラルタル総督官邸にて第303計画(Plan 303)と称される南仏侵攻計画について話し合った。直後、ドイツ側では第303計画に関する情報を得て、現地のエージェントに調査を命じている。さらにジェームズはアルジェに飛び、地中海戦線の連合軍司令官ヘンリー・メイトランド・ウィルソン(英語版)将軍と公の場で複数回接触した。その後、彼は秘密裏にカイロへと送られ、ノルマンディー上陸作戦に向けた準備が進められている間はそこで過ごした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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