Linkin_Park
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チェスターを迎えたのを機に、バンドのコンセプトを明確にするためバンド名をXeroからハイブリッド・セオリーに改名、ハイブリッド・セオリー名義でEP作品の『ハイブリッド・セオリーEP』を1000枚自主制作した。フェニックスは、1999年から2000年後半に掛けて他のバンドのツアーに参加するため、バンドから一時離れたが、2001年の『Crawling』のPV撮影から復帰した[17]
ワーナーと契約

チェスターの加わったハイブリッド・セオリーは42社ものレーベルを訪れたが、一向に契約を結べないでいた。しかし、先述のジュフ・ブルーがワーナー・ブラザース・レコードA&R部門(新人アーティストを発掘・デビューさせる部門)に移籍していたこともあり、ワーナーとの契約締結に漕ぎ着けた。ところが、ワーナーにはすでに同名バンドが存在していたことから、改名することになる。チェスターは、定期的に車で通りかかっていたサンタモニカの公園の名前に因み、LINCOLN PARKという名称への改名を提案したが[12][18]、インターネットのドメイン名がおさえられていたために断念。結局LINCOLN PARKと同じ発音であるLINKIN PARKに落ち着いた。
メジャーデビュー(2000年-2002年)

2000年10月、ドン・ギルモアのプロデュースで1stフルアルバム『ハイブリッド・セオリー』をリリース。ビルボード誌のBillboard 200で初登場16位、最高位2位を記録(以下「全米○位」と表記)。アメリカで2001年に最も売れたアルバムに認定され[11]、現在までに世界で3,000万枚以上売り上げている[12]。収録曲のいくつかは、映画『ドラキュリア』『リトル★ニッキー』『バレンタイン』などでフィーチャーされた[12]2001年にデビューシングル『ワン・ステップ・クローサー』をリリースし、同年11月には初の映像作品集『フラット・パーティー』と4thシングル『イン・ジ・エンド』を同時にリリースした。

アルバムの大ヒットを機に、オズフェストや『オールモスト・アコースティック・クリスマス(ラジオ局KROQ主催)』『ファミリー・バリュー・ツアー』など多くのツアーやコンサートに参加。オズフェストではブラック・サバスマリリン・マンソンスリップノットパパ・ローチディスターブドクレイジー・タウンブラック・レーベル・ソサイアティなどと競演した[13]。この年には324本のライブをこなした。2001年11月、バンドと親しいJessica Bardasの提案で、公式ファンクラブ『リンキン・パーク・アンダーグラウンド(Linkin Park Underground - 略称 LPU)』が設立される[13]2002年には自らが立ち上げたコンサート・ツアーである『プロジェクト・レボリューション(Projekt Revolution)』の初公演が行われた。初のフィーチャリングは、アディーマ(Adema)、サイプレス・ヒル(Cypress Hill)、DJ Z-Tripだった[13]

2002年、第44回グラミー賞で3つの部門にノミネートされ[19][20]、『ハイブリッド・セオリー』収録曲の2ndシングル『クローリング』でベスト・ハード・ ロック・パフォーマンス部門を受賞した[11]。授賞式の際、会場入口で写真撮影に応じていた時に受賞がアナウンスされてしまい、受賞決定の瞬間をメンバーたちは聞けなかったというエピソードがある[21]

同年7月、『ハイブリッド・セオリー』の1stリミックス・アルバム『リアニメーション』をリリースし、全米初登場2位を獲得。発売週だけで27万枚以上を売り上げ[22]、リミックス・アルバムとして初動の売り上げ記録を更新した。
メテオラ(2003年-2006年)

2003年3月、2ndアルバム『メテオラ』をリリース。初週に81万枚を売り上げ、アメリカとイギリスで初登場1位を獲得した[18]。現在までに全世界で2,700万枚以上の売り上げを記録している[11]。同年11月には1stライヴ・アルバム『ライヴ・イン・テキサス』をリリース。2004年にはジェイ・Zとのマッシュ・アップ作品『コリジョン・コース』をリリースし、全米で初登場1位となった。なおジェイ・Zは、2005年にバンドMCのマイク・シノダが立ち上げたサイド・プロジェクト『フォート・マイナー』にエグゼクティブ・プロデューサーとして参加している。

2003年4月8日から行われたプロジェクト・レボリューションのツアーに、アメリカの軍人とその家族を特別ゲストとして招待、「国のために自ら犠牲を払っている人たちに対して、お返しをする必要があると思う」と述べ、軍人らを称えた[23]2004年東南アジア地域がスマトラ島沖地震による災害に見舞われた際には、赤十字の協力のもとに基金団体『ミュージック・フォー・リリーフ(Music For Relief)』を設立。バンド自身も10万ドルを寄付し、ファンらにも寄付を呼びかけた[24]。また2005年チェスター・ベニントンはアメリカ南東部を襲ったハリケーン・カトリーナの被害救済のチャリティー企画に参加した[25]モトリー・クルーのヒット曲『Home Sweet Home』を再レコーディングし、その売上げを被害救済に充てるというもの)。

2006年、ジェイ・Z feat. リンキン・パークのコラボレーションアルバム『ナム/アンコール』で第48回グラミー賞の最優秀ラップ/ ソング・コラボレーション部門を受賞[26]。開会式でポール・マッカートニー、ジェイ・Zと共に『ナム/アンコール』『イエスタデイ』を披露した。同年サマーソニック06のヘッドライナーとして来日。新曲『QWERTY』を披露し、その前日に単独公演も行った。『ナム/アンコール』は映画『マイアミ・バイス』で使用された。
ミニッツ・トゥ・ミッドナイト(2007年-2009年)

2007年5月、プロデューサーに前任のドン・ギルモアから新しくリック・ルービンを迎え、実に4年2か月ぶりとなる3枚目のオリジナル・アルバム『ミニッツ・トゥ・ミッドナイト』をリリース。音楽性で大きな路線変更があり、賛否両論が起こったものの、アメリカや日本を初め世界31か国で1位を獲得[24]。そのほとんどの国々でプラチナディスク、ゴールドディスクの認定を受けた。現在までに全世界で2,000万枚以上の売り上げを記録している。アルバムからの1stシングル『ワット・アイヴ・ダン』はスティーヴン・スピルバーグ制作総指揮の映画『トランスフォーマー』の主題歌に使用された。2007年7月、世界7大都市で同時開催されたチャリティーコンサートライヴ・アース(LIVE EARTH)』の東京公演にヘッドライナーとして出演した。同年11月には、来日公演の『JAPAN TOUR 2007』が開催され、その際に来日記念盤として、『ミニッツ・トゥ・ミッドナイト―ツアー・エディション』がリリースされた。

2008年4月、ラッパーのバスタ・ライムスとのコラボレーション曲『ウィ・メイド・イット』のシングルCDをリリース。この曲はバスタ・ライムスの新アルバムに収録される予定だったが最終的には収録に至っていない。

2008年11月には、2ndライヴ・アルバム『ロード・トゥ・レヴォリューション』 と、未発表音源を収録したミニ・アルバム『ソングス・フロム・ジ・アンダーグラウンド』をリリースした。同アルバムには、これまでにLPU会員限定で公開されてきたデビュー前の楽曲やアルバム未収録の『QWERTY』が収録されている。日本では来日記念盤が2009年5月14日にリリースされた。


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