LaLa
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その他の「LaLa」については「ララ」をご覧ください。

LaLa(ララ)

ジャンル少女漫画
読者対象少女
刊行頻度隔月刊月刊
発売国 日本
言語日本語
定価470円(2014年6月号以降)
出版社白泉社
編集長佐藤一哉[1]
雑誌名コード09205
刊行期間1976年7月 -
発行部数53,000部(2023年10月 - 2023年12月日本雑誌協会調べ)
レーベル花とゆめコミックス
姉妹誌LaLa DX、××LaLa
ウェブサイト ⇒白泉社オンライン
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『LaLa』(ララ)は、白泉社の発行する少女向け漫画雑誌。毎月24日発売[2]。キャッチコピーは「バラエティに富んだ パワーあふれるコミック誌」[2]。版型はB5判[2]
歴史
創刊

1974年に『花とゆめ』を創刊させ、当時同誌の編集長であった小長井信昌は、同誌を軌道に乗せることに成功した[3]。小長井はその「次なるプロジェクト」として[3]1976年7月に隔月刊誌として本誌を創刊[4][5][6]。創刊号は山岸凉子の「花の精たち」というイラストが表紙を飾った[6][7]。創刊時の表紙について、成田美名子は「枠の中に入っていて、すごくおしゃれ。当時はこういうデザインがなかったので、すごく新鮮」だと語っている[8]。創刊号には美内すずえ和田慎二木原としえ萩尾望都竹宮恵子倉多江美三原順などの漫画家の作品が掲載された[3]

創刊当時の誌名は『花とゆめ LaLa』であり[6]、価格は260円[9]。初代編集長は小長井信昌が務めた[6]。キャッチフレーズは「ビューティフルなまんが雑誌」であった[8]。創刊号は24万8千部で、売行きは97.3パーセントという驚異の数字であったため、売り切れる店が続出したという[6]
1970年代

創刊からちょうど1年後の1977年7月に同年9月号をもって月刊化され、誌名も『LaLa』へと変更された[6]。それから1年の間、表紙を萩尾望都が担当した[6]。本誌は「花とゆめよりも高い年齢層をカバーする少女マンガ誌」という位置づけであった[3]

コミックナタリーによると、このころの主な作品に三原順の『ルーとソロモン』、和田慎二の『あさぎ色の伝説』、木原敏江の『摩利と新吾』、美内すずえの『黒百合の系図』、大島弓子の『綿の国星』、青池保子の『Z -ツェット-』、坂田靖子の『バジル氏の優雅な生活』などがある[6]

1979年7月、初の増刊号である『LaLa2月大増刊』が刊行される[6]
1980年代

女子漫画研究家の小田真琴によると、初期の本誌は24年組が支えていた[3]。例として山岸凉子の『日出処の天子』や大島弓子の『綿の国星』を挙げている[3]。編集長の小長井は、集英社で『別冊マーガレット』の編集者として活動し、同誌で鈴木光明たちと創設した「マンガスクール」での経験を活かし、「白泉社でも新人の発掘・育成に力を入れて」いた[3]。それにより、本誌から成田美名子森川久美ひかわきょうこ樹なつみ清水玲子などがデビューを果たす[3]

1980年代には『別冊LaLa SUMMER』をはじめとした増刊を多く刊行[6]。「一つのマンガ誌が成功すると、それに付随して、別冊、増刊類の雑誌群、そしてコミックスのような単行本群が、比較的容易に出せるうまみと利点がある」という考えを持つ小長井によると、「グループの知名度も上り、かつマンガ家の活躍の場を作り、また有望作家や新人を他誌、他社にとられぬよう確保、維持する」目的のためであった[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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