LZ_129_(飛行船)
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しかし、使われた薬品はアルミニウム酸化鉄の混合で、激しく熱せられるといわゆる「テルミット反応」を起こすものであった。ダイニングルームを描いた画ラウンジを描いた画

ヒンデンブルクの内装は、プルマンコーチや外洋客船、ドイツ海軍の軍艦などの経験を持つフリッツ・アウグスト・ブロイハウス教授によってデザインされた[1]。上層のAデッキは、中央に旅客用の小さな区画と大きなパブリックラウンジが並び、ラウンジとダイニングルームが左舷に、ライティングルームが右舷に配置されていた。ダイニングルームの壁にはグラーフ・ツェッペリンの南アメリカへの飛行の絵が描かれていた。ラウンジの壁は枠つきの世界地図に覆われていた。両デッキには、全長にわたって傾斜した長い窓が設けられていた。乗客は、窮屈なキャビンよりむしろこのラウンジで大半の時間を過ごすよう考えられていた[2]。ヒンデンブルクの乗客は、これが史上最も贅沢な航空機であるということを疑わなかった。そして、ただの一人も飛行機酔いにかからなかった。

下層のBデッキには洗面所、乗員用食堂と喫煙ラウンジがあった。グッドイヤー・ツェッペリン社のアメリカ側代表者であるハロルド・G・ディックは次のように回想している。『漏れた水素が一切侵入しないように加圧された喫煙室への唯一の入り口は、回転するエアロックドアを持つバーの向こう側にあった。出ようとする乗客は、火の付いたタバコやパイプを持ち出さないかどうか、バーのスチュワードによってとことん調べ上げられた。』[3]
水素の使用.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "LZ 129" 飛行船 ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2009年2月)

浮揚ガスとしては、飛行船には最も安全であるとして不活性のヘリウムが選ばれたが、当時それはあまりにも高価であり、アメリカ合衆国の天然ガス備蓄から供給されていた。それに比べて水素は、誰にでも安価に生産でき、また水素とヘリウムの比重差から、浮揚できる重量や上昇高度もヘリウムに比べて多大であった。ヘリウムを使用するアメリカの硬式飛行船はガスの徹底的な節約を強いられ、それが活動を妨げていた。

水素で浮揚する飛行船は必要なときにはガスを排出することができたが、高価なヘリウムで浮揚する飛行船は、軽すぎて降下できないときにはガスを排出できず、構造に無理がかかっても力学的な方策を採らねばならなかった。アメリカ合衆国は最初ドイツにヘリウムを売りこもうとしたが、すぐにドイツに対する軍需物資の禁輸が行われたために、ヒンデンブルクは水素を使用するように変更を強いられた。

可燃性の水素を使うことの危険性は明らかだったが、十分な浮揚力を提供する十分な量が用意できるガスは他には存在しなかった。水素を使用することの効果の一つは客室を追加できるということだった。水素による旅客飛行船を一人の死傷者も無く運用した長い歴史を持つドイツは、水素の安全な使用に熟達しているという大きな確信を持っていた。水素とともに飛ぶということは、今日では危険な行為とみられているが、当時は合理的であると考えられたのである。ヒンデンブルクの最初のシーズンは、これを証明したものであった。
運航歴

1931年以降5年にわたる断続的な工事の末、ヒンデンブルクは1936年前半についに完成し、3月の最初の3週間に6回の慣熟飛行を行った。ヒンデンブルクはツェッペリン飛行船会社(英語版)、ドイツ航空省とルフトハンザドイツ航空 (Deutsche Lufthansa AG) が1935年3月に合弁で設立しドイツ・ツェッペリン運航会社 (Deutsche Zeppelin-Reederei GmbH) によって商業運航を行った(この会社は、1935年から1937年まで、グラーフ・ツェッペリン号の最後の2年間の南アメリカへの商業運航も行った)。ヒンデンブルクは大西洋横断の定期旅客輸送を行うために作られた2隻の飛行船の1隻目であったが、実際に商業運航に従事したのは本船のみだった。
ドイツ飛行

しかし、ヒンデンブルクの最初の公式飛行は本来の目的である大西洋横断旅客輸送でなく、ナチス党の宣伝手段としてであった。初飛行した3月4日の3日後、ドイツ軍はオランダ、ルクセンブルク、ベルギー、フランスと国境を接するラインラントに進駐した。そこは1920年に締結されたヴェルサイユ条約で、ドイツとライン川の西の近隣4ヶ国との間の緩衝区域として非武装化が定められていた場所だった。


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