LT貿易
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覚書では、1963年から1967年までの5年間を第一次五カ年貿易期間とし、年間の平均取引総額を3600万ポンドとする、中国側の輸出品は石炭鉄鉱石大豆トウモロコシ、豆類、塩、スズ、その他。日本側の輸出品は鋼材(特殊鋼材を含む)、化学肥料農薬、農業機械、農具、プラント、その他とすることなどが規定されていた。

この協定実行に伴い、それまで行われていなかった技術の交流・協力なども積極的に行われていくこととなる。従来の短期民間貿易に加え、政府保証を背景とした延べ払いを利用する長期・総合取引化が進んだ。一例として倉敷レーヨン(現クラレ)ニチボー(大日本紡績、現ユニチカ)によるビニロンプラント輸出をはじめとするメーカーの直接交渉による長期契約方式がある。LT協定締結直後には、早くも中華人民共和国技術輸出入公司ビニロン視察団(団長:楊維哲)が訪日、1963年8月23日には池田首相の決断により日本輸出入銀行の200万ドル融資が行われ、延べ払い形式でのプラント輸出が行われることとなった[17](ただし、第二次吉田書簡問題(後述)によりニチボーの契約は遅れる)。
LT貿易の実績

LT貿易協定により、両国間の貿易規模は一気に拡大した。1966年(昭和41年)度には当初の目論見をはるかに凌駕し、総額2億ドルを超える取引となった。これは日中貿易総額の約3分の1にあたった。中国側にとってもこの時期急速に悪化したソ連との関係や、自然災害などによる食糧危機、文化大革命による国内ダメージなどに起因する物資の不足を補う貴重な役割を果たした。一方、LT貿易(後にMT貿易)の促進とともに、平行して行われていた友好商社取引の額も飛躍的に増加。結果的には年を追ってLT取引比率が減少していく結果となった。

LT貿易・MT貿易総額(単位:1,000米ドル)年対中輸出額対中輸入額輸出入合計
総額うち覚書貿易比率総額うち覚書貿易比率総額うち覚書貿易比率
196362,41736,67558.8%74,59927,58737.0%137,01664,26246.9%
1964152,73969,21445.3%157,75045,21928.7%310,489114,43336.9%
1965245,03689,93536.7%224,70592,80441.3%469,741182,73938.9%
1966315,150100,00031.7%306,237105,00034.3%621,387204,78733.0%
1967288,29468,00023.6%269,43984,00031.2%557,733151,88927.2%
1968325,43963,00019.4%224,18551,00022.7%549,624113,34820.6%
1969390,80342,00010.7%234,54021,0009.0%625,34363,15010.1%
1970568,87850,0008.8%253,81826,00010.2%822,69676,0009.2%
1971578,18854,0009.3%323,17232,0009.9%901,36086,0009.5%

(外務省 日中貿易額の推移、外務省 外交青書、 ⇒経済産業省 通商白書、 ⇒経済白書データベース(旧経済企画庁)などより作成)

※なお必ずしも覚書貿易と友好商社取引の区別が明確でない取引も少なくないため、上記数字はあくまで概算である。
中華民国の対応と周鴻慶事件

LT貿易の開始とそれに伴う貿易連絡所設置、日中記者交換協定締結などの動きは、中共と対立する国府(中華民国政府)を刺激し、日華関係は次第に悪化していた。そのような状況の中、さらに両国の関係を悪化させたのが周鴻慶事件であった[18]

周鴻慶事件とは、1963年9月に中華人民共和国油圧機器訪日代表団の通訳として来日した周鴻慶が、全日程を終える直前の10月7日早朝、ソ連大使館に亡命を求めたことから始まった事件である。周はその後、亡命希望先を台湾に変更。亡命先に指名された国府は、日本側に周鴻慶の引き渡しを強く求めたが、中共との関係悪化を恐れた日本外務省パスポート期限切れを理由に10月8日周を拘留、その後10月24日には「本人の意志」が中共への帰国に変わったとして、翌1964年1月10日中国大連に送還した[19]

この一連の日本側の対応に国府当局は激怒し、駐華大使を召還すると共に日本政府へ厳重な警告と抗議を行い、日華関係は断絶の危機に瀕した。この国府側の警戒を解くため、池田首相・大平正芳外相は、吉田茂元首相に個人の資格で台湾に訪問することを要請。吉田は池田首相の親書を持参して台北へ赴き、要人と会談した。しかし帰国後の1964年(昭和39年)5月、張群国民党秘書長へ宛てた吉田茂の書簡の中に対中プラント輸出に輸銀融資は使用しないと表明してあったため(「吉田書簡」)、先に契約が成立していた倉敷レーヨンに較べ、ニチボーの契約調印は大幅に遅れることになった[20]
MT貿易

1967年(昭和42年)、LT貿易は計画の5年間の期限切れを迎えた。翌1968年に古井喜実が訪中し、3月6日に覚書「貿易会談コミュニケ」を調印。その後は1年ごとに両国の交渉者が覚書を交わす形式となり、MT貿易(Memorandum Trade)と改称した[21]。この貿易関係は国交正常化翌年の1973年まで続き、日中間の経済的な交流を深める役割を果たした。
その後の日中関係と貿易

1964年に病気退陣した池田首相の後を受けた佐藤栄作首相は、実兄である岸と同様に親米・親華路線をとった一面もあった。しかし、1971年に米中接近を象徴するニクソン・ショック(翌年にニクソン訪中を行うことを宣言)が起き、佐藤首相・福田赳夫外相は中共・台湾双方と国交を持つべく国際連合においてアルバニア決議に反対して「二重代表制決議案」と「重要問題決議案」を米国などと共同提案することになる。この時期中華民国の国際的孤立が高まり、中華民国との断交・日中国交正常化を期待する声が日本国内でも目立つようになった。佐藤首相もアルバニア決議の可決を受け、1972年1月の施政方針演説では「中国は一つであるという認識のもとに、今後中華人民共和国政府との関係の正常化のため、政府間の話し合いを始めることが急務である」[22]として中国との国交正常化を目指す路線に修正した。

佐藤後継を巡る1972年(昭和47年)の自民党総裁選では、佐藤の腹心であった福田赳夫を除く3人の候補(田中角栄・大平正芳・三木武夫)はいずれも中華民国との断交・中共との国交正常化の推進派であり、日中国交正常化を条件に大平・三木の支持を得た田中が勝利した。同年7月7日に田中内閣が成立すると、早くも9月には田中首相・大平外相らが訪中。日中共同声明が出され、中華人民共和国の建国後初めて日本と中国との間に正式な国交が結ばれることとなった。と同時に、大平外相が日華平和条約の失効を宣言したことで中華民国との国交が断絶し、日中関係と日華関係が逆転。以後は日華間において国交のない貿易が続くこととなる。

1974年(昭和49年)1月5日には北京で日中貿易協定が締結。ここに正式な国交に基づく貿易体制が築かれた。以後、1978年から始まる改革開放路線を経て日中間の貿易額は拡大し続け、2006年には中華人民共和国(香港を除く)との輸出入総額がアメリカを抜き、日本の最大の貿易相手国となっている。
脚注^ 「日中関係史」49P  有斐閣
^ 林・渡邊1997、64p。
^ 衆議院会議録情報 第024回国会 本会議 第29号 昭和31年3月30日
^ 衆議院会議録情報 第025回国会 本会議 第17号昭和31年12月12日
^ 岸信介・矢次一夫・伊藤隆『岸信介の回想』185頁、文藝春秋社、1981年
^ 権容?『日中貿易断絶とナショナリズムの相克』第4章
^ 参議院会議録情報第028回国会外務委員会第11号昭和33年3月20日
^ 衆議院会議録情報第028回国会外務委員会第20号昭和33年4月9日
^ 衆議院会議録情報第031回国会予算委員会第3号
^ 衆議院会議録情報第029回国会本会議第4号昭和33年4月9日
^ 原彬久『岸信介証言録』p.159.
^ 岸信介、矢次一夫、伊藤隆『岸信介の回想』211頁、文藝春秋、1981年
^ 林・渡邊1997、118-120p。
^ 林・渡邊1997、152p。
^ 林・渡邊1997、157-164p。
^ 林・渡邊1997、164-167p。貿易連絡事務所と新聞記者交換に関して、倪志敏「池田内閣における中日関係と大平正芳(その2)」(『龍谷大学経済学論集』第45巻第2号、2005年10月)が、成立の過程を明らかにした。
^ 東2002、132-133p。
^ 東2002、133-135p。倪志敏「池田内閣における中日関係と大平正芳(その3)」(『龍谷大学学論集』第45巻第3号、2005年12月)。
^ 事件の経緯についての中共側・国府側・日本側の見解は、それぞれの立場を正当化する主張を含んでいるため政治的バイアスがかかっており、事件当時の周鴻慶本来の意志がどこにあったかは推測の域を出ない。当初の通り亡命を希望していたのであれば、日本側の行動は1951年にジュネーヴで採択された難民条約に規定するノン・ルフルマンの原則(送致・送還の禁止の原則)に反する行為であるが、日本はこの時点で難民条約に加入していなかった(1981年10月3日に加入)。
^[1]UNITIKA会社情報歴史アーカイブ ニチボー編第5章「構造的不況打開への経営努力(昭和30年?44年)」
^ MT貿易のTはTrade(貿易)であるため、「MT貿易」という語は重言表現になるが、しばしば用いられる。
^ (4)第68回国会における佐藤内閣総理大臣施政方針演説

関連項目

日中関係史

日台関係史

日本国と中華民国との間の平和条約(日華平和条約)

日中記者交換協定

日中国交正常化

日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)


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