LRV_(月面車)
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この項目では、アメリカ合衆国の月面車について説明しています。ソビエト連邦の月面車については「ルノホート計画」を、中華人民共和国の月面車については「嫦娥3号」を、月面車全般については「月面車」をご覧ください。

LRV (Lunar Roving Vehicle) は、1971年から1972年に行われた3度のアポロ計画アポロ15号アポロ16号アポロ17号)で使用された四輪電池駆動の月面車である。バギーカーを意味するドゥーン・バギー ("dune buggy") をもじって、ムーン・バギー (moon buggy) として知られる。

LRVは、アポロ月着陸船によって月面に運ばれ、月面で包装が解かれた後は、1人か2人の宇宙飛行士、その装備、月のサンプルを乗せて走ることができる。現在でも月面に残されている。
歴史1971年のアポロ15号のミッションで使われたLRV

LRVの構想はアポロ計画より早く、1952年から1952年のCollier's Weekly誌に掲載されたヴェルナー・フォン・ブラウンらによるMan Will Conquer Space Soon!という連載で表明された。ペーパークリップ作戦ドイツからアメリカ合衆国に来てアメリカ陸軍弾道ミサイル局の局長となったフォン・ブラウンは、この記事の中で、6週間の月面滞在で物資を運ぶための10トントラクターについて描いている。

1956年、ポーランド出身で当時ミシガン大学教授兼アメリカ陸軍の部隊の顧問であったミェチスワフ・ベッカーは、月面移動についての2冊の本を出版した[1]。これらの本は、将来の月面車の開発に多くの理論的基礎を与えた。
初期の月面移動の研究地球で訓練を行うアポロ16号の宇宙飛行士

1964年2月、当時アメリカ航空宇宙局マーシャル宇宙飛行センター(MSFC)のセンター長であったフォン・ブラウンは、ポピュラーサイエンスにおいて月面車の必要性について論じ、MSFCで、ロッキード、ベンディックス、ボーイングゼネラルモーターズ、ブラウン・エンジニアリング(BECO)、グラマンベル・ヘリコプターと協力して研究に着手していることを明らかにした[2]

1960年代初め、月面移動に関する一連の研究がMSFCの指揮下で行われた。当初は、Lunar Logistics System (LLS)という研究名であったが、後にMobility Laboratory (MOLAB)、Lunar Scientific Survey Module (LSSM)、Mobility Test Article (MTA)と名前が変わった。アポロ計画の初期段階では、乗組員を月に送る1台と、装備、食糧、月面車を月に送る1台の合計2台のサターンVロケットを用いることが計画された。MSFCにおける全ての研究は、この2台打上げ体制を前提にしていたため、大きく、重い車体が許容された[3]

LLSの研究は、1962年秋にグルマンとノースロップによって開始され、与圧キャビンとそれぞれの車輪の電子モーターが設計された。これとほぼ同時に、ベンディックスとボーイングは、月面車の車内の研究を開始した。サンタバーバラにあるゼネラルモーターズ防衛研究所(GMDRL)に移っていたベッカーは、ジェット推進研究所から依頼されたサーベイヤー計画のための小型無人LRVの研究を終えた。ハンガリー出身のフェレンツ・パヴリックスは、弾力性のある車輪を作るために金網状の設計を用い、この設計は後の小型車にも採用された[4]

1963年初め、NASAはApollo Logistics Support System (ALSS)の研究拠点にMSFCを選んだ。先行研究の調査に続いて、この結果は10巻の報告にまとめられた。その中には、2人の人間が最大2週間の期間を過ごすための装備や消耗品を備えた、2,940-3,840 kgの範囲の重さの与圧車の必要性等が含まれていた。これは、Mobility Laboratory (MOLAB)と呼ばれた[5]。1964年6月、MSFCはMOLABとMobility Test Articles (MTAs)の研究をベンディックスとボーイングに委託し、車両の研究の下請けにGMDRLを選んだ。ベル・ヘリコプターは、既にLunar Flying Vehiclesの下請けの研究を行っていた[6]

ALSSの研究は進んでいたが、MSFCは、より現実的な表面探査計画であるLocal Scientific Surface Module (LSSM)の検討も行っていた。これは、固定式で居住可能なシェルター式研究所(shelter-laboratory、SHELAB)で、1人乗りか遠隔コントロール可能な小さなlunar-traversing vehicle (LTV)を備えたものだった。LSSMは、やはり2台の打上げが必要であった。Propulsion and Vehicle Engineering (P&VE)とHayes Internationalは、シェルターと車両の基礎研究を行った[7]。また、将来的に月探査が拡大し、MOLABのような車両が必要になることに備え、MOLABの開発は続けられ、いくつかの実物大のMTAが作られた。

アポロ計画の予算を削減するというアメリカ議会の圧力を受け、サターンVロケットの建設数は削減され、1つのミッションに1つのブースターしか許されなくなった。そのため、LRVも宇宙飛行士と同じ月着陸船で輸送する必要が生じた。1964年11月、ALSSは無期限凍結されたが、ベンディックスとボーイングは小さなLRVの研究を続けた。Lunar Excursion Moduleの名前は、簡潔なLunar Moduleに変更された。この計画ではSHELABは存在せず、2人を収容する施設はLocal Scientific Surface Module (LSSM)と呼ばれた。MSFCは、地球からコントロール可能な無人ロボット車についても検討を行った。

アラバマ州ハンツビルに拠点を置くBECOは、MSFCの立上げ以来、全ての月面車の計画に参加してきた。1965年、BECOはMSFCのP&VE研究所の元請企業となった。2人乗りのLSSMの実現可能性の算出が急務になると、フォン・ブラウンは通常の手続きを飛ばし、P&VE's Advanced Studies Officeに対し、直接BECOにMTAの設計、製造、試験を行わせるよう指示した[8]。ベンディックスとボーイングはLSSV/Mの設計を続けていたが、MTAはMSFCの有人計画に不可欠なものであった。Hayes Internationalの初期の計画を率いてきたフィリピンからの移民のEduardo San Juanは[9]、BECOに加わり、LSSM MTAの開発を主導した。

LSSM MTAの開発においては、先行の小型ローバーに関する研究は全て用い、市販で手に入る部品は出来る限り用いられた。車輪の選択は非常に重要で、当時は月の表面についてほとんど情報がなかった。MSFCのSpace Sciences Laboratory (SSL)は、月面の性質の予測を担当していた。BECOはSSLの元請企業でもあり、車輪と表面様々な条件を試験する試験場を用意した。Pavlicsの弾力性のある車輪のシミュレートでは、ナイロンのスキーロープで覆われた直径4フィートのチューブが用いられた。MTAでは、それぞれの車輪が小さな電子モーターを備え、全体の電源には一般的なトラック用のバッテリーが用いられた。横転事故を防止するためにはロールバーが取り付けられた。

1966年初頭、BECOのMTAの試験の準備が完了した。MSFCはクレーターや岩を模した小さな試験場を設置し、LSSMとMOLAB MTAを比較した。提案されたミッションに対しては、小さなローバーが最適であることがすぐに明らかとなった。加速、バウンド高さ、高速での転覆率等の危険が伴う試験には、遠隔モードでの操縦も行われた。6分の1の重力下でのLSSMのパフォーマンスは、嘔吐彗星KC-135Aの飛行で検査され、非常に柔らかい車輪やサスペンションの必要性が示された。Pavlicsの金網状の車輪はMTAには用いられなかったが、ミシシッピ州ヴィックスバーグにあるアメリカ陸軍工兵司令部の水路実験所において、様々な土壌における試験が行われた。後に、金網状の車輪が低重力下で試験された際、塵の混入を防ぐためのフェンダーの必要性が発見された。LSSM MTAはアメリカ陸軍のユマ性能試験場やアバディーン性能試験場で広範な試験が行われた[10]
アポロ計画のLR V

1965年から1967年にかけて、月探査に関するサマーカンファレンスが開催され、科学者にNASAの月探査計画に対する評価や勧告を行う機会が与えられた。これにより、LSSMは計画の成功に欠かせないものであり、大きな注目を集めていることが分かった。フォン・ブラウンは、MSFCに月面車タスクチームを結成し、1969年5月、NASAは有人月ミッションにLunar Roving Vehicle (LRV)を使用することを決定し、MSFCの開発したManned Lunar Rover Vehicle Programを採用した。Saverio F. Sonny MoreaはLRV計画の責任者に指名された[11]

1969年7月11日、アポロ11号が月面への着陸に成功する直前頃、アポロ計画のLRVの最終設計と製造の見積依頼が出されることがMSFCにより公表された。ボーイング、ベンディックス、グラマン、クライスラーはこの募集に応募した。3か月間の提案評価と交渉の後、1969年10月28日にボーイングが元請に選ばれた。ボーイングは、ハンツビルのHenry Kudishの下でLRV計画を運営した。主な下請けとして、Ferenc Pavlics率いるゼネラルモーターズの防衛研究所が移動システム(車輪、モーター、サスペンション)を提供した。ボーイングは電子系とナビゲーションシステムを提供した。車両の試験は、ワシントン州ケントにあるボーイングの工場で行われ、シャーシの製造と全体の組立てはハンツビルにあるボーイングの工場で行われた[12]

最初のボーイングへの支払いは1900万ドルで、最初のLRVを1971年4月1日までに納入することを求められた。しかし、費用が見積もりを超過し、最終的な費用は、NASAの当初の見積もりとほぼ同じ3800万ドルを要した。4台の月面車が完成し、3台はそれぞれアポロ15号、16号、17号に用いられ、残りの1台は中止されたアポロ計画のために作られたものである。Savero Moreaによる論文は、LRVシステムとその開発に関する詳細な情報を与えてくれる[13]


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