LOSCリール
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リール
原語表記Lille Olympique Sporting Club
愛称Les Dogues (The Mastiffs)
[1]
Les Nordistes (The Northmen)
Les Lillois (The Lillois)
クラブカラー   
   
創設年1944年
所属リーグリーグ・アン
所属ディビジョン1部(2023-24
昨季リーグ順位5位(2022-23
ホームタウンリール
ホームスタジアム
スタッド・ピエール=モーロワ
収容人数50,186[2]
代表者 オリヴィエ・レタン
監督 パウロ・フォンセカ
公式サイト公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

LOSCリール(フランス語: Lille Olympique Sporting Club, フランス語発音: [lil ?l??pik sp??t?? kl?b])は、フランスリールに本拠地を置くサッカークラブチーム。一般にはリール(Lille)、LOSCとも呼ばれる他、かつての略称であるリールOSCが今日でも使用されていることがある。
概要

愛称はLes Dogues(猛犬)であり、エンブレムにも犬が描かれている。リーグ・アン(旧ディヴィジオン・アン)で4回、クープ・ドゥ・フランスで6回の優勝を誇る名門である。1944年に設立されると、1945-46シーズン、1953-54シーズン、2010-11シーズン、2020-21シーズンの4回リーグ・アンで優勝し、6回クープ・ドゥ・フランスで優勝した。クープ・ドゥ・フランスで3連覇を達成したことがあるのはリールとFCレッドスター・サン=トゥアンの2クラブのみである。最も成功を収めた10年間は1945年から1955年までの期間であり、この期間はジョージ・ベリー監督とAndre Cheuva監督が采配を振るい、ディヴィジョン・アン優勝2回、クープ・ドゥ・フランス優勝5回を誇った[3]

かつてはヴィルヌーヴ=ダスク近郊にあるスタジアム・ノール・リール・メトロポールをホームスタジアムとしていたが、2012年にグラン・スタッド・リール・メトロポールにホームスタジアムを移転した。南西約30kmの距離にあるパ=ド=カレー県ランスに本拠地を置くRCランスとはライバル関係にあり、両者の対戦はデュルビ・デュ・ノール(北部ダービー)と呼ばれる。
歴史
黎明期オリンピック・リロワの紋章

1944年9月23日、SCフィヴ(1901年創設)とオリンピック・リロワ(1902年創設)が合併して誕生した。前身クラブのリロワは1932-33シーズンにリーグ優勝しており、1939年にもSCフィヴとの合併を協議していたが、合意には至らず、地元のIris Club Lilloisと合併してオリンピック・リロワとなっていた。第二次世界大戦ヴィシー政府のプロサッカー禁止令の影響で、多くの選手はアマチュアリーグでプレーした。当初の名称はスタッド・リロワ(Stade Lillois)であり、1944-45シーズンに先駆けた親善試合2試合をこの名称で戦ったが、1944年11月10日に監督らがミーティングを行ない、クラブ名称をリール・オランピク・スポーティング・クラブ(Lille Olympique Sporting Club)に変更した。この名称はオリンピック・リロワ(LO)とSCフィヴ(SC)に敬意を払ってのものである。ホーム用ユニフォームにはリロワが使用していた赤色と白色を採用し、アウェー用にはフィヴが使用していた青色を採用した。フィヴの元会長であるルイ・エノがリールの初代会長に就任した。
黄金期

第二次世界大戦後、リールはプロリーグに復帰してディヴィジョン・アンに登録され、エノ会長はイングランド人のジョージ・ベリーを監督に招いた。また、Joseph Jadrejak、Marceau Somerlinck、Jules Bigot、フランソワ・ブルボット、Jean Baratte、Jean Lechantreなど、かつてのフィヴとリロワの選手たちを呼び寄せることにも成功した。彼らのおかげで、1945年のクープ・ドゥ・フランスでは決勝に進出。コロンブスタッド・オランピック・イヴ=ドゥ=マノワールで行われた決勝では、より経験豊かなラシン・クラブ・ド・フランスに0-3で敗れた。1945年にはディヴィジョン・アンが復活し、リールは1945-46シーズンのディヴィジョン・アンとクープ・ドゥ・フランスのダブル(2冠)を達成して驚きをもたらした。ディヴィジョン・アンでは26試合で28得点を挙げたRene Bihelに導かれ、ASサンテティエンヌに勝ち点1差でトロフィーを獲得した。決勝でFCレッドスター・サン=トゥアンと対戦したクープ・ドゥ・フランスでは、Bihel、Bolek Tempowski、Roger Vandooren(2得点)の得点で勝利した。地元紙によって「War Machine」というニックネームが付けられた。ベリー監督はエノ会長とたびたび衝突し、シーズン終了後に退任してAndre Cheuvaが新監督に就任した。

優勝の立役者となったベリー監督は去ったが、Cheuva監督の下でも調子を維持し、1946-47シーズンのリーグ戦では4位となった。クープ・ドゥ・フランスの決勝ではRCストラスブールと対戦し、2-0で破って2連覇を果たした。1947-48シーズンはリーグ戦こそオリンピック・マルセイユに次ぐ2位だったが、クープ・ドゥ・フランスでは決勝でローカル・ライバルのRCランスと対戦し、Baratteが86分に決勝点を挙げて3連覇を達成した。その後の4シーズンも継続して3位以内に入った。1950-51シーズンのラテン・カップでは決勝に進出したが、ACミラン(イタリア)に敗れた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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